玄米ごはん族のあしたのたのしみへ

玄米と野菜、果物で今日から明日へ。農業と穀物菜食の日々

基本は少飲少食だがたまにはーーー

2019-12-28 00:48:52 | おつきあい
 以前、自然食レストランでの昼食で家にないメニューがあると物珍しさもあってここぞとばかり大食いしていた。すると頼もしいと思ってしまうのだから穀物菜食の原則から外れていても気にならない。やっているほうは家にいる気分で大食いできるのだから最高だろう。
 父は昔からなんでも食べて、穀物菜食など相手にしない。それでも、ごくまれに父を誘うと、ひとつも箸がすすまないのでやはり穀物採食は嫌いか、と思った。今考えると少食なのでまんべんなく箸はつけるが味わうぐらいですませていた、とわかかる。いくら穀物菜食とはいえ大飲大食をしていた人間には少飲少食などわからないし気がつかない、ということだ。
 今考えると、決して嫌いなわけではなく少食にしていただけということに気がついた。自然食レストランばかりでなく父はどんなところでも少食だった。これに気がつかなかった。メニューに関係なくすべての料理に手をつけるが、味見するだけのように少量しか食べない。ものたりないのかな、味が気に入らないのかな、と周囲には思われた。興味がないなら次回はもっと高級なところしかない、と思わせた。
 ものぐさ人間は最初からいらないの話しかしないので相手にされないので気楽だ。
 ものすごく身近なところで何が行われていたのか、どういうことなのかわからなかった。片方はガツガツ大食い、かたやうまいともまずいとも言わないでちょっと箸をつけるだけ、なので比べて、興味なし、嫌いなのだろう、と思ったのは当たりまえ、何が不足なのだろう、とも思った。
 少食多種型と大食小種型を比較していたことになる。そういう比較は間違いだった。判断する基準からして定性的だった。今はどれだけ少飲少食なのか、ということを判断の基準にするので定量的になった。

 穀物菜食の人間が少飲少食になったのは、つい最近なのに父ははるか前からだ。成長期がナイナイずくしの時代で穀物菜食は簡単にできた。今、穀物菜食にしようとしてもあまりにも飲食物がありすぎてたいへん難しいのだが、ものぐさ人間が苦労して少飲少食になったのに比べて当たり前のように少飲少食を実行していた。

 穀物採食は少飲少食が基本原則。父は基本を守っている。ところが、穀物菜食でも大飲大食のほうの人間が、基本に忠実な人を評価していたのだから結論はとんでもない方向へ行ってしまう。何と無礼なことをしたのだろう。

 ナイナイずくしの時代に育った粗食に耐えたものすごい体が少飲少食で長生きしているのに、そのあとの世代は高カロリーなのだからもっと前世代より少飲少食になって医療費は劇的に低下するはずだが、結果は逆で何もかも高くなり、高カロリーなのにあれがたりないこれがたりないと言われて大飲大食になっている。まるでつじつまがあわない。
 誰もが大飲大食が普通だと思っているので大飲大食を基準に物事を判断してしまうので間違ってしまう。少飲少食を基準にすべきだ。

 ナイナイずくしの父の成長期の時代は粗食しかない。努力しなくても自然に穀物採食に近いことになっている。後の世代の高カロリー時代では粗食しようにも周りに様々の食物があるので、できない。何が基準になるかもわからなくなり勘違いする。
 
 簡単に考えても、粗食で少飲少食、ならば、高カロリー食では極少飲極少食になるはずだが実際は逆になっている。高カロリー時代には栄養が満たされているはずなのに後から後からあれもこれも必要だといわれ高カロリー高級料理であるにも関わらず大飲大食になり食費も高くなり、少食少飲になるのはずいぶん難しい。健康な人でも病院、お薬、定期検査、精密検査、などなど心配ごとがたえない。
 それにひきかえ、歯医者様にだけ数年に一回行くか行かないかのものぐさ人間の医療費は0みたいなものだ。大飲大食でも穀物菜食なら健康を保てる、ということかもしれない。

 それなら、穀物菜食で、たまには息抜きに遊びにストレス発散に意思疎通にパーティー、宴会、お食事会を開いて大飲大食しても健康は維持できることになる。
 ものぐさ人間が実例になるか。年末年始は実験のチャンスだが、やるかやめるか。数ヶ月前までやっていた大飲大食をやれば良いだけだが、やれと言ってはたしてーーーーーー



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