少飲少食でまんべんなく箸をつけ味見していると、ずいぶん行儀が悪いと思われるかもしれない。若い人は小さいころから出されたものは残さないで全部食べること、と教えられているのでマナー違反だ。
父が育ったナイナイずくしの時代は少飲少食で残すものなどないが、飽食の時代には残さないように教えられるので、まんべんなく味見して残すようなことをやっていては教えられたこととちがうので、嫌がられるだろう。
ところが、大飲大食していて残さない流儀の人が大勢いいても、少飲少食の人のやっていることは目に入らないので誰も気がつかない。逆に少飲少食の人から見ると大飲大食の人がやっていることは良くわかる。ずいぶん入るなあ、どこへはいっているんだろう、などと。
物が豊かになった時代の大飲大食でも、食べなければならないもの、不足するものがたくさんあり、あれもこれも食べなければ大変なことになると言われている。大飲大食の法則は実行がたいへんなことだ。その法則を信じて、普通の食事では少飲少食はできるわけがない、と誰もが思っている。
穀物菜食を実行している人間も、その法則から普通の料理で少飲少食にしたら栄養失調になる、と思っていた。だが、どんな法則にも例外がある。その例外はずいぶん身近な人で、普通の料理で少飲少食だった。
大飲大食の法則上、普通の料理は大飲大食だけでは体が持たないので、あれも食べてこれも食べろ、と難しいことになっている。物があふれていて大飲大食してそれでも何かが足りないから補わなければならない、と法則に従うと際限もなく食べるものが増える。
法則の例外の人は簡単そのものの食事をしている。戦前戦中のナイナイずくし時代に成長した人には少飲少食が、ズバリ当てはまっている。その時代は粗食で済ませる以外どうしようもなく、量も足りないので、成長期を粗食の少飲少食で過ごす以外になかった。
大飲大食の法則の例外のほうが断然まともに見える。普通の料理でも少飲少食にすれば健康を保つことができるのだから。それに、長寿になっているのだから。
大飲大食の法則からすると少飲少食は例外で気がつかないし、ごく少数だろうが、現実に少飲少食の人がいるのだから、法則はやぶれている。
大飲大食の法則よりまともな普遍的な法則があることに気がつく。それは、誰もが認めたくない全く逆の思考の法則になり、人体のエネルギー収支計算の足し算と引き算からわかった
少飲少食の法則
誰もが認めたくないが、大飲大食の法則の例外をスーーーーーーーっと説明できる。
父が育ったナイナイずくしの時代は少飲少食で残すものなどないが、飽食の時代には残さないように教えられるので、まんべんなく味見して残すようなことをやっていては教えられたこととちがうので、嫌がられるだろう。
ところが、大飲大食していて残さない流儀の人が大勢いいても、少飲少食の人のやっていることは目に入らないので誰も気がつかない。逆に少飲少食の人から見ると大飲大食の人がやっていることは良くわかる。ずいぶん入るなあ、どこへはいっているんだろう、などと。
物が豊かになった時代の大飲大食でも、食べなければならないもの、不足するものがたくさんあり、あれもこれも食べなければ大変なことになると言われている。大飲大食の法則は実行がたいへんなことだ。その法則を信じて、普通の食事では少飲少食はできるわけがない、と誰もが思っている。
穀物菜食を実行している人間も、その法則から普通の料理で少飲少食にしたら栄養失調になる、と思っていた。だが、どんな法則にも例外がある。その例外はずいぶん身近な人で、普通の料理で少飲少食だった。
大飲大食の法則上、普通の料理は大飲大食だけでは体が持たないので、あれも食べてこれも食べろ、と難しいことになっている。物があふれていて大飲大食してそれでも何かが足りないから補わなければならない、と法則に従うと際限もなく食べるものが増える。
法則の例外の人は簡単そのものの食事をしている。戦前戦中のナイナイずくし時代に成長した人には少飲少食が、ズバリ当てはまっている。その時代は粗食で済ませる以外どうしようもなく、量も足りないので、成長期を粗食の少飲少食で過ごす以外になかった。
大飲大食の法則の例外のほうが断然まともに見える。普通の料理でも少飲少食にすれば健康を保つことができるのだから。それに、長寿になっているのだから。
大飲大食の法則からすると少飲少食は例外で気がつかないし、ごく少数だろうが、現実に少飲少食の人がいるのだから、法則はやぶれている。
大飲大食の法則よりまともな普遍的な法則があることに気がつく。それは、誰もが認めたくない全く逆の思考の法則になり、人体のエネルギー収支計算の足し算と引き算からわかった
少飲少食の法則
誰もが認めたくないが、大飲大食の法則の例外をスーーーーーーーっと説明できる。