一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

ゴミは処理できるがゴミ問題の処理は難しい

2004-12-13 | うろうろ歩き
産業廃棄物不法投棄で話題になった豊島に行って現場見学をしました。
案内してくれたのは廃棄物対策豊島住民会議の事務局の方。九州大学大学院の社会学の研究者とのこと。

概要説明を聞いた後現場見学。

マスコミに取り上げられてからしか知らなかったが、もともとは1975年にさかのぼる問題だった。
そもそもその前に現場の土地を所有していた松浦某が、土地で取れる砂(珪砂)をガラス原料として出荷しているうちに、山を切り崩し、地面を掘り下げてしまい、その後に産廃受け入れを商売にしようとしたところから始まった。
当初無許可で始めたところに住民が文句を言ったところ、「ミミズ養殖のための土壌改良事業」の許可をとったり(=持ち込むのは無害なゴミだけ)、金属くず商の許可をとったり(=金属を取り出す原料としてのゴミだよ)と言を左右にして事業を拡大し、ついには専用船で直接運び込むようになった。
ゴミの野焼きで住民にはぜんそくの被害も出るようになった。

行政はこれに見て見ぬふりをし(松浦は時として暴力に訴え、役人はびびってたらしい)、住民も手をこまねいていたところ、1990年に兵庫県警が強制捜査に入り、松浦は逮捕され、操業停止に追い込まれた。
この捜査は住民もまったく知らず(豊島は香川県)、産廃を積み出していた姫路港からの通報をもとに内偵していたらしい。


しかし問題はここから。溜まったゴミから汚水が染み出していて潮干狩りもできた海岸は極度に汚染され、堆積したゴミの量も膨大であり、これを誰の費用で処理するかが大問題になった。

ここでも県は過去の責任を認めようとせず、1993年住民は中坊公平氏らを弁護団として県・県の職員・松浦・排出事業者を相手に公害調停を申し立てた。
調停の結果、松浦には損害賠償命令が出、松浦は破産を申し立てたため、土地を人手に渡るのをおそれ住民のものにした。
排出事業者とは個別に和解が成立し、約3億円を受領、活動資金に。
そして、県との間では2000年に調停が成立し、2016年までに県が処分地を総額500億円かけて原状回復することになった。(その後公害特別措置法で4割国庫負担となる)

で、処理施設を見学。現場は危険なので施設の上の階から眺める。
それでも200×400mの広さの迫力は伝わる。
施設にも見学コースがあり、ビデオで概要を学んでから順に案内される。

ここには染み出した汚水を処理して海に放流する施設(そのために海岸側は岩盤までの遮水壁を打ち込んである)と、タイヤのような大きな廃棄物を破砕してまとめる施設がある。

肝心の最終処分は隣の直島の三菱マテリアル工場(本業は銅の精錬所)内に作った施設(ここの運営はクボタ)で行われ、最後は「スラグ」という無害な顆粒状になってセメントの骨材に使われる。


ではなぜ直島住民は豊島住民がいやがった「他人のごみ」を受け入れたのか?


「結局廃棄物問題って、『何を問題だと思うか』なんですよね」とは研究員氏


直島は三菱マテリアルの企業城下町で、公害に比較的寛容なのと、最近のリストラで雇用確保が課題になっていたという事情がある。
また、もとを辿れば、大正時代に三菱マテリアル(三菱金属)が精錬所の設置を最初の持ちかけたのは豊島で、豊島が断ったので直島に行ったという経緯があり、その結果直島は企業城下町で人口も豊島より多く、豊島は農業中心、ということになった。

では一方の豊島は、元から「ECO」な住民だったかというとそんなことはないんじゃなかろうか。
案内の途中で畑や道端に廃車になった自動車が捨て置かれており、一方で不法投棄の主なものが自動車のシュレッダーダストであることを考えると、皮肉な構図である。

結局、運動が長期間持続できた背景には、ポイントポイントでイベントが起きた(松浦の強引な規模拡大、県知事・職員の不規則発言、兵庫県警による逮捕、それに中坊公平氏のマスコミを巻き込んだ戦略のうまさなど)ことが大きかったんじゃないか。


さらに、地球温暖化対策の見地からはごみは焼却せずに埋めてしまった方がCO2の排出は少ないという議論だってある。


結局「自分の土地に他人のごみを持ってくるのはけしからん」という素朴な怒りが運動の原動力になったわけだけど、豊島のごみは直島に持っていってるわけで、しかもそこで高温で焼却されてCO2を排出している。その意味では問題はまだ終わっていないし、明快な結論ってないのかもしれない。

などと快晴の瀬戸内海を眺めながら、いろいろ考えつつ小豆島に渡った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする