一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

イサムノグチ庭園美術館

2004-12-16 | うろうろ歩き
イサムノグチ庭園美術館を訪れる。
* 写真撮影禁止だったので今回は画像は無し

牟礼という高松から電車で20分ほどのところ。
イサムノグチが50代半ばから晩年まで日本での制作拠点を置いたアトリエをそのまま美術館としている。

牟礼は庵治石という墓石などに使われる灰色の花崗岩の産地で有名。そのために石工が集まっている。
確かに駅から美術館の道筋にも、石材店が立ち並び、店頭に灯篭とかモニュメント、蛙や狸の像などいろんなものが飾ってあって、ここは特殊な町だな、と気づかされる。

イサムは春と秋の2,3ヶ月間を牟礼で過ごし、制作に没頭した

今回事前に『イサムノグチ 宿命の越境者』(ドウス昌代著 講談社文庫)を読み始めたが、ちょうど、牟礼にアトリエを開く前くらいまで進むことができた。

アトリエ全体が美術館を構成しているので、受付の小屋で集合し、学芸員について見学する。

まずは「マル」と呼ばれる円形に石垣で囲まれた作業スペースと作業蔵。
白砂の上に作品と製作中の石が置かれている。
その配置も最晩年にイサムが考えながら置いたものだという。

その隣に展示蔵がある。
ここには代表作のひとつ「エナジーボイド」という4mくらいの彫刻がある。
まずエナジーボイドが完成し、蔵はこれを保管するために酒蔵を探してきてそれを彫刻の上からかぶせるように移築したとのこと(入り口からでは入らなかった)。
エナジーボイドは、黒い輪が四角から微妙にねじれて、今にも動き出そうとし、または何かの力を受け止めてしっかり踏ん張っているかのような、静かな力感を感じる作品。
ほかに「ウォーキングボイド」というエナジーボイドが一歩踏み出したような作品もある(これは人間の背丈くらい)作品もある。
一歩踏み出したことで頂上部分は三角に近くなり、また底辺は足をつなぐためにL字型になっている。動く直前のenergyを放出したせいか造形的には安定した形。

つぎにイサム家。イサムが寝泊りした江戸時代の屋敷を自分流にモディファイした家。
床を土間レベルまで掘り下げ、薄い石を引いて中心に「空間のうねり#2」という作品をテーブルに見立てている。
照明には自身の設計で工業製品としては最大のヒットとなった「あかり」がぶらさがっている。
庭は苔に竹林という落ち着いたたたずまいに、実をつけた1本の柿の木がアクセントになっている。

裏山の石段を上ると「彫刻庭園」と呼ばれる芝庭とまあるい築山がある。築山は計算されたうえでの自然なヴォリューム感とでもいうような安心感と豊満で自然なエロティシズムをほのかに感じさせる絶妙な形状。これもイサムが自ら設計したものの、造成中に何度も台風の雨水によって崩されて、結局今の形を受け入れることにしたとのこと。晩年の境地を見る思いがする。

築山を迂回して登ると、その頂上にはタマゴ型の高さ2mくらいの天然石がぽつんと立っている。そこからは左に屋島が景色を切り取り、右には五剣山の石切り場、そして真ん中の奥に瀬戸内海が見える。
この石はイサムが手を加えずに残したくらい気に入っていたという。
牟礼でのイサムの制作のパートナーであった和泉正敏氏がイサムの没後、イサムが石に書いたままで放っておいた線に沿ってノミを入れ、石を2つに割ってイサムの遺灰を入れてある。

石に寄りかかって景色を眺める。
抜けるような青空と、屋島・五剣山の常緑樹と紅葉のモザイク、そこに影を落とす雲の動き。向こうに見える瀬戸内海。
パノラマのような景色を見ながら耳に入ってくる石切り場や街中に無数にある石工の作業所の音

イサムは「いつきても懐かしい」と言いながら「どんなに居心地よくても、ここに長居しては、ぼくはだめになる」と言ってニューヨークとの行き来を最後まで続けたという。

そして日本と米国への帰属意識に揺れ、アーティストとして走り抜けたイサムは最後に牟礼に戻ってきた。



イサム・ノグチ―宿命の越境者〈上〉

講談社

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コメント (2)
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