一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

Kitty≠キティ

2004-12-26 | うろうろ歩き
夕方ポンピドゥーセンターへ。

お目当ては、ブランクーシのアトリエが保存されていると知ったから。
(以前きたときにもあったはずなんだけどね。)

ブランクーシは、20世紀前半の抽象芸術を代表する彫刻家で、現在マイ・ブームのイサムノグチがパリに渡ったときに短期間ではあるが弟子入りして、その創作にかける厳しい姿勢に影響を受けたといわれる。

そのアトリエは天井壁床が一面白く塗られた有名なものだった。
写真家マン・レイは共通の友デュシャンに連れられてこのアトリエを訪れたとき
「どんな聖堂に踏み込んだときよりも強い感銘を受けた。その白さと明るさに圧倒されてしまったのだ。別世界に入っていくみたいだった」(『セルフ・ポートレイト』)と表現している。

ブランクーシはそこで白いスモックを着て、2匹の白い犬を飼っていたという。

本当に実物も真っ白で、天窓の白いすりガラスからの光で輝いている。白以外のものは、白くない作品と工具、それとなぜかあるゴルフクラブくらい。

「最初だからこそ出来るものを大切にせよ。はじめから破棄する試作としてものをけっして作るな。いまより以上の良いものができるとけっして思うな。」
「いまという瞬間こそを最高のものとせよ」
という教えをイサムノグチはブランクーシからもらった「最高の財産」と言っていたそうだが、この教えは凡人にとっても、もって銘ずべし、といえよう。

* ドウス昌代『イサムノグチ 宿命の越境者』講談社文庫 上巻p259~261から引用



同じ入場券で入れるのでせっかくなのでポンピドゥーセンター4,5階にある国立近代美術館にも行く(実際はこっちが先)。

ブランクーシの作品は2点、イサムノグチはテーブルと「あかり」が1点ずつ。
「現代美術」の中に入ると、これらはきわめてオーソドックスな作品に見える。


現代美術は詳しくないが、抽象芸術が「意味」を過剰にとり込んだことで、形式と表現されたものの関係が逆転してしまっていて、「楽屋落ち」のようなものになってしまっているような感じがする。

シャネルの装飾をしたギロチン、とかフィボナッチ数列(1,1,2,3,5・・・と前の2つの数の和が次の数になる数列。自然界に現れたり、数字が大きくなると隣り合う2項のどこをとっても黄金分割比率になること等で有名)の上を歩くワニとか、"Hello Kitty"(写真)とか・・・


"Hello Kitty"を眺めていて、「キティはもっと平べったくなきゃ」と思ったところでふと思い出したのは、東浩之が村上隆には「萌え」要素を捉える能力に欠けている、と書いていたこと。

正確に調べると、村上隆の制作協力者でもあるあさのまさひこがあるイベントで「村上には「オタク遺伝子」が欠けていると述べている」といったことを引用しながら

<そもそも現代美術の批評的な世界では、シュミラークルの生産は「新たな前衛を構成するための武器」と位置づけられている。(中略)その文脈で理解すれば、『DOB』や『S・M・P・ko2』はまさに、オタク的なデザインがもつもっとも過激で無根拠な部分を抽出し、純粋化して作られた作品であり、その点で高く評価されるべき質を備えている。しかしオタクたちにとっては、村上のその実験は、萌え要素のデータベースを理解することなしに、デザインというシュミラークルだけ(まさに表層だけ)を抽出して模倣した、不完全な試みでしかない。>
* 東浩之『動物化するポストモダン』講談社現代新書 p92~94から引用

と述べている。

(ここでは東は、オタク文化の特質として、従来の「オリジナル対コピー」(核にある大きな物語の伝承に成功した「オリジナル」と失敗したコピーの対立)の図式でなく、コピー(二次創作)が氾濫する中で正しいものと正しくないものを判別するデータベース(たとえば「萌え要素」)の共有が大事で、いわば根幹に「大きな非物語」であるデータベースがあり、その同じ情報の表現系としてのシュミラークルがある、という議論をしている。
そして現代社会ではデータベースレベルでの「大きな非物語への欲望」=社会的共感の喪失、とシュミラークルレベルでの「小さな物語への欲求」=「動物的」=直接的に自己の満足のみを求めるによって動かされるという、これはこれで非常に興味深い論を展開しているのだが、それはおいておいて)


そういう意味でkittyを引用することも意味があるのだろうが、表層での差異化が「新たな前衛を構成するための武器」でなく自己目的になってしまったとき、楽屋落ちにしかならなくなってしまうのだろう。

僕は残念ながらそこの違いがよくわからない。




イサム・ノグチ―宿命の越境者〈上〉

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動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会

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右往左往

2004-12-26 | よしなしごと
パリは渋滞+一方通行が多く、タクシーだととんでもない料金がかかることもあるので、移動はやはりメトロ。
ただ、同じ駅とは思えないくらい乗り換えに歩かされることがある。
みんな大江戸線との乗り換えのようだ。

ところでパリの地下は、メトロのほかRERという国鉄系の電車も走っている。
こちらはメトロより治安が悪いと言われているが、試しに乗ってみてなるほど。
走る電車が2階建ての中距離電車のためかトンネルが大きく、駅も天井がなく薄暗い。
人気がなければかなり不安になる。

しかも困ったことに、メトロは右側通行なのにRERは左側通行。
ようやくホームの左側から電車が来るぞ、と慣れてきたのに、ちょいと意表をつかれる。
ドイツなどの鉄道も左側通行だったと思うので、メトロが鉄道の世界では異端なのかもしれないが、道路は右側通行なのだからこれまたややこしい。
テンキーの話もそうだが、日本は道路・鉄道とすべて左側通行で統一が取れているが、フランスまたはEUも域内で統一したらいいのでは?

あ、でも、イギリスがいるからダメか・・・


ここでふと思ったんだけど、飛行機って何で左側からしか乗り降りしないんだろう?
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蒐集への情熱と覇権主義の境界

2004-12-26 | うろうろ歩き
今日はルーブル美術館

pyramideが出来てから初めて行く(いつの話じゃ・・・)
入り口に向かって建物の屋根のところにブリキの太鼓を叩く子供の人形が置いてあり、「テンテンテン」と音を響かせていた。映画へのオマージュなのだろうか?

昔(だからいつの話だってのw)とくらべて展示室がはるかに大きくなり、ガイド・インフォメーションも充実したことに驚く(そりゃ15年前に比べればそうだ)。

正直ルネッサンス絵画は見飽きたので、地下・1階のメソポタミア・エジプト関係を重点的に見て回る。
ちょうど、NYのメトロポリタン博物館からメソポタミア関係の所蔵品の特別展示が来ていた。装飾タイルの色彩やタピストリーが充実していて、楽しめた。
過剰に技巧的でなく、またprimitiveでもない、素直に楽しめる美しさがあって好きである。

エジプト(ここは大人気)の展示になると、石柱や石窟や石棺など、よくもまあこんなものまで持ってきて、というほど大規模な展示に毎度のことながら関心すると同時にあきれる。

財力に物を言わせた収集癖というか、美術的覇権主義というか、何でも気に入ったものは取ってきてしまうという当時のフランスの勢いを象徴する部分なんだろうけど。
この収集癖は、ウイーンの美術史美術館ではもっと顕著で「ハプスブルグ家の威信」を象徴するように、エジプトからギリシャ・ローマのものが略奪といっていいくらいいっぱい並んでいたように記憶している。

これじゃあ、地元の人は怒るよな・・・
テロの対象にならなければいいが
(そのせいか、どこも手荷物検査は厳しかった)

イタリアのもの(またはメディチ家がスポンサーになったもの)を展示しているウフィッツィ美術館はやはり立派だ。


お約束のモナリザは黒山の人だかり。
ガラス越しなのに写真を撮ろうとする人ばかりで、フラッシュの光や距離測定の赤外線ライトで絵が落ち着いて見られない(写真)。

ミロのビーナスやサモトラニのニケ像は彫像なので広いところに展示してあり、比較的落ち着いてみることが出来たけど。記念撮影はここでも大変だった。


同じ階でナポレオンの特別展示をしていて、有名な戴冠式の大作のほか、王冠や衣服も展示してあった。思った以上に小柄な人だったんだな、といまさらのように驚く。

一通り見ると午後になってしまったが、入場者はひっきりなし。
日曜+クリスマス休暇ということか。
展示室のキャパを増やして動線を整理したのは大成功だったようだ。
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