著者は禅寺で修業した後米国でキリスト教神学を研究し、現在は比較宗教学・比較文明論の研究者です。
内容的は既存の宗教(タイトルで言うカギカッコつきの「宗教」)がいかに宗教本来の役割である「個人に対する救い」から離れてしまっているかに対する批判・問題提起になっています。
私の主張は、組織としての宗教に依存することによって、真の意味での<個>の尊厳を見失ってはならないということに尽きる。私がいう<個>の尊厳とは、仏教で言う仏性であり、キリスト教でいう精霊のことであるが、その自覚に到る道は、何者にも寄りかかることのできない孤独な道なのである。
私が宗教の超克を訴えるのは、宗教が過去と未来を見て、現在を見ようとしないからである。過去を見るというのは、人間が過去に犯した罪とか、先祖が作った因縁とかを大仰に語ることである。そして、その贖罪のために、教会や寺院に寄付を求めてきたのが、宗教の伝統である。
未来を見るとは、終末論やら地獄の思想を説き、いまだ来ぬ死の恐怖をあおり立てて来たことである。その上で、後生のために信仰をもつことを勧めたり、手厚い葬儀を営んだりすることによって、民衆の心を教会や寺院につなぎとめようとしてきた。
救いを説きながら、そこに欠落しているのは「今」をどう生きるかという教えである。「幸せになるために、神仏に願をかける」というのも、先を見て、現在を見ていないことになる。人間として幸せになりたいというのは、自然な感情であるが、その幸せが何かを手に入れないと実現しないと考えるのは、妄想である。
「過去と未来を見て、現在を見ようとしない」というのは、今回の大震災の復興や原発議論にも通じるものがあるように思います。
そういう議論のレトリックは昔からの蓄積があるのでしやすいという面があるのかもしれません。
平易な語り口と個別のエピソードから宗教批判とか一神教に対する多神教からの批判的な印象を受けがちですが、著者はできるだけ中立であろうと心がけているようです。
著者はあとがきで自分の生活は宗教的だし迷信深い普通の日本人だといいつつ、この本の執筆の動機を語ります。
宗教への思い込みから、自分の生き方をずいぶん窮屈なものにしている人もいるかと思えば、反対に宗教的なものにまったく無関心のため、もう一つ人生に深みを見出せない人もいる。そういう人たちにも、宗教とはいったい何なのかと、もう一度、考え直してもらいたいという気持ちがあった。
僕自身後者の典型だし、この本もどこまで身になったかはわかりませんが、いつかはまたこの本を開こうとおもう時がくるのかもしれません