小林亜星さんが5月30日に亡くなったと 一昨日報道されました。
享年88歳は 日本男子の81歳平均寿命よりも 長い生涯でした。
亜星さんはだれもが知る数々のヒット曲を作った 音楽界の巨匠
であり 大日本肥満者連盟(大ピ連)の 初代会長もされました。
『寺内貫太郎一家』は石工寺内貫太郎の 家族をめぐるドラマで
大きな身体の亜星さんが毎回 息子の西城秀樹さんとつかみ合い
のケンカをして 西城さんはふっ飛びました。
おばあちゃん役の樹木希林(当時は悠木千帆) さんが 沢田研二さんの
ポスターを見て ジュリィ~~! と毎回もだえましたが 希林さんは
このとき まだ31歳の若さでした。
1974年のこのドラマから半世紀近くたち ↑貫太郎一家のメンバーから
すでに 6名が鬼籍にはいりました。
小林亜星さんは数々の名曲を世に送りました。その中でもとくに好きは
向田邦子新春ドラマのテーマ曲 『過ぎ去りし日々』 です。
昭和10年代の古きよき時代を背景に 向田さんが綴った 珠玉の短編から
作られた新春の向田ドラマは 寺内貫太郎と同じく 久世光彦さん演出です。
主演は田中裕子さん。常連は小林薫・加藤治子さん。過去に森繁久彌さんも
出ました。
向田ドラマの名プロデューサーであった 久世光彦さんもすでに亡く 今度
また 亜星さんも遠くへいきました。
小林亜星さん 感動ドラマと 心に響く多くの曲をありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。
ほんと!亡くなられた方が多いなぁ、と改めて思いました。
「寺内貫太郎一家」演出の久世光彦さん、脚本の向田邦子さんも…。
久世光彦さんが 向田邦子さんの思い出などを綴った「触れもせで」、
そこにも「貫太郎一家」の話題がしばしば紹介されていました。
此頃 有名な方が亡くなられた記事に触れると
少し歳のはなれた方も含めて
「同時代を生きた人々」への共感、悲しみがあふれてまいります。
野に咲く花のように 風に吹かれて
野に咲く花のように 人をさわやかにして
そんな風に 僕達も 生きてゆけたら すばらしい…
ダ・カーポ「野に咲く花のように」も小林亞聖さんの作曲でしたね。
https://www.youtube.com/watch?v=R86PSjWXDVw
ご冥福をお祈りいたします。
その方の年齢と自分の年齢を並べて、足したり、ひいたり・・・
だんだん近い方が多く(´;ω;`)ウゥゥ
亜星さんの曲は、最初のフレーズを聞くと続いて歌えますよね。
加藤登紀子さんのデビュー曲も亜星さんでしたね。
この処の阪神の快進撃。。。
(まだわからない、わからない)と自分に言い聞かせながらも心ウキウキ🎵
阪神が勝利すると、
見たことないはずの、トラ様の喜びの顔が浮かびます( ´艸`)
私のような後期高齢者も間もなくですが、やはり自分の時代の方が亡くなるのは淋しいものですね。
・・・私の中では、「時間ですよ~」とごちゃまぜになってますけど・・・
向田作品 好きです
台湾の飛行機事故で 帰らぬ人になりました
加藤治子さんのホンワカしたところ好きでした
亜星さんのように 色々全く雰囲気の違う楽曲が 出来上がるってどういう脳の構造だろうって
思ってました
↑の写真から 50年近く経った歳月がしみじみ感じられます。
私たちだって当時は20代でしたものね。
新春の向田ドラマの主演は田中裕子さん。彼女はぱっと観で 美しい!とは
思いませんが ドラマの中のちょっとした仕草や表情などに とても上品な
お色気を感じます。そうした魅力を久世光彦さんが引き出しました。
向田邦子原作・久世光彦演出・小林亜星テーマ曲がひとつになってあのドラマの
数々が生まれたでしょうね 一つ欠けても雰囲気は違っていたと思います。
ご紹介の久世さんの本は文庫本で出ていますね 買います。
ダ・カーポ チェリッシュ 紙ふうせんなど20代から親しんだデュオは
それぞれ今も夫婦デュオとして活躍していますね。
50年近く 仕事も実生活も良きパートナーとして歌い続けており
しみじみと歴史を感じます。
とのことで 大きな会社にお勤めだったのねと思っていました。
小林亜星さんのブリヂストンCMソング『どこまでも行こう』は
♬この木 なんの木 気になる木♬の『日立の樹』とともにCMソングでは
最も有名な曲と思います。元気がもらえるそんな歌ですね。
『どこまでも行こう』から何年もたって服部克久さんが作った『記念樹』で
騒動がありましたね。音楽にうとい私でも聴けば これは盗作?
いや編曲だと思います そっくりですもの。裁判にもなりましたが
今はもうお二人とも天に昇りました。
年上ではあっても ああまた同僚が逝った という気持ちになります。
亜星さんはCMソングが有名ですが『北の宿から』などの
すばらしい曲もたくさん残しましたね。
春の珍事?とも思われたトラの快進撃も もうここまで来たら実力ですね。
藤浪君が中継ぎに回って 打たれたけれど勝ち投手になって運もめぐってきました。
中継ぎが性格的にも向いているかもしれませんね。
交流戦が終わってダントツのトップ 2位のGとは大きく水をあけました。
こちらのTVでは中継がないことが多く トラチャンネルと言ったかな
娘宅が付けていますので 老トラはいそいそ見に出かけています。
PCやスマホなど さくさく行かなくなるとすぐに投げ出し 若い者に
直してもらうまで触ろうともせずいますので 増々世間から遅れて行きます。
だからか 映画やドラマもひと昔前のものが好きで 前と言っても戦前までは
遡りません。ドラマは最近作られたものでも 時代設定が昭和10-20年代を
扱ったものが好きで 向田ドラマはまさにその通りの作品でした。
そんなドラマが少なくなりました。寂しく思います。
飛び上がりました。あれから40年。向田さんが生きておれば90歳ほどです。
その事故から10年ほどして台湾旅行し 高雄⇒台北へ国内機で飛んだとき
後部のドアに針金で止めてある箇所を見て すぐに向田さんの事故を思い出しました。
当時の台湾の飛行機は 日本でさんざん使った古い機体を譲り受け
運行していると聞いていましたが ドアの針金を見て震えあがったものです。
向田さん これから増々脂の乗ったいい作品が生まれたでしょうに
惜しかったですね。向田ドラマもなくなり寂しくなりました。