鎮魂歌。
2023-01-18 | 日記
阪神淡路大震災から 昨日でもう28年も経ちました。もうというより
はや28年 という気がします。
神戸新聞より
当時私は40代半ばで会社勤めをしており 震災から2週間ほどたった
ころ昼休みに外へ出ると はりまや橋で同級生に会いました。
彼女は当時 地元の予備校に勤務しており 食事をしつつ震災の話に
なると 急にぽろぽろ涙を流しました。
びっくりして聞くと 予備校でがんばってきた生徒が この震災の
犠牲者になった と泣きます。
不安だらけの予備校生を 叱咤激励しつつ ともにがんばってきた
あの子が 地震で死ぬなんて
第一志望は落ち もう1年がんばろうと勧めたが 親の負担を思うと
2浪はできない 合格した第二志望へ行きます と言ったそうです。
こんなことになるなら 無理やりでも2浪させたら良かった と友は
泣き崩れました。
あれから28年。さまざまの思いとともに 28年が流れました。
幸いというか
知っている方は関西にはいなくて
でもその朝テレビで見た時のがれきの山の衝撃が忘れられませんあれからいろいろなところでも災害が多くなり悲しいことです
ご冥福をお祈りいたします
あの日 かつて経験したことのない大きな揺れに飛び起きました。
一階に降りると 本棚も食器棚もグチャグチャでした。
「大きな地震やったなぁ」と言いながら少し早い朝食をとりました。
なぜか… TVは見ていませんでした。
「早めに行く」といつもより半時間ほど早く家を出ました。
通勤のバスがガラガラで「なんでかなぁ」と…。
JRの駅に着くと「総て運休」「復旧のメドなし」。
家に戻った私に妻が『TVを見て! 大変なことになっている』と。
勤め先に電話がつながらず 近所の赤電話から漸くつながりました。
「なんとしても出てきてくれ」と言われ車で向かいました。
片道約20kmですが、着いたのは午後1~2時頃(5
時間余)。
出勤率は1/3ぐらいで、西側(神戸方面)からはゼロ!
それから何日後だったか…阪急が西宮北口まで開通した日に
妻とリュックサックを担いで西宮や宝塚の友人のところに行きました。
持参したもので最も歓ばれたのは "ショートケーキ" でした。
『お腹は満たされるようになったけど 美味しいものがほしかった』と
涙をぼろぼろこぼしながら…。
あの日から28年。
南海トラフが割れる確率はもはや確率!の域を超え
いつ起きてもおかしくない状況にあります。
なのに地盤の弱い大阪湾の埋立地で万博を開催! カジノを開帳!
そんな知事・市長、政治家・財界…大震災から何も学んでいません。
轟音が 遠くから迫って来てその後 縦揺れ、横揺れ (∞マークみたい)が
襲いました
島で暮らしている同級生も 倒れた建物から人々を救助したとか
従姉は ちょうどその時刻、大学に戻る娘をやっと神戸に向かう船に
乗せたけれど、その後 神戸の方が 大変だと知ってあわてたそうです
パートの同僚( 神戸、海の方の埋め立て地のマンションで 暮していた)は、
午後6時過ぎまで 水も食料も無く 寒い避難所で耐えたって涙ながらに
言うてました
幸いなことに 私どもは、人的にも 関連した建物にも被害がありませんでした
強いて言えば、 実家の周辺、山からの水の流れが 変わりました
年を重ね 同じことが起こった場合、さぁ? 避難できるかしら
今朝 あさイチで 牧野さんゆかりの植物園紹介されてましたね
揺れが収まった後もしばらくの間 燃え続ける火が映っており建物の
下敷きになった人の多くが 救助が間に合わず火災で亡くなりました。
あの惨状をTVで見て 神戸の街の復興は時間がかかるろうと思いましたが
今ではすっかり もとの都会に戻りました。原発がない分早かったですね。
あの日ぐりさん地方は揺れませんでしたか?こちらは地底からの音と揺れで
目が覚めました。離れた高知でも 今まで経験したことがない揺れでしたので
現地の人は怖かったでしょうね。
素人考えですが 大地震時に断層面が 左右または上下に力が働き
裂け目が大きくなるんですね。
28年前は地震直後から被害状況がTVに映り 高速道路が波打って傾き
あわやのところでバスが引っかかっていたりで それよりも燃え続ける火災を
なんでまず消さんのか と素人でも思いますが あの時は村山政権でしたね
大惨事の最中に会議ばかりしており 皆で怒りました。
沢松奈生子さんの家がぐしゃりと潰れTVに出ました。デさま家は
人も建物も無事でよかったです。ショートケーキの差し入れは喜ばれたでしょう。
自衛隊が主食は運んでくれても お菓子はもらえないでしょうから。
来るのは確かですが 南海地震がいつになるのか 高知などは海岸線が
長いので大津波が来たら 多くの人命が失われます。海岸線のあちこちには
津波の避難塔が建っていますが 年々動けなくなる身体で 塔まで走れるのかです。
大阪湾の埋め立て地に 万博やカジノ会場が作られますか。
大きい地震が来たら大惨事になりますね。28年前に大地震があったから
しばらく来ないという考えでしょうか。
28年は長い年月です。28年前のあの日に淡路島で誕生した照強は
昨日の1/17誕生日を 白星で飾れませんでした残念。
あの日早朝に 地底から湧き出るような音と がたがたする揺れに
夢見ているのか?と目が覚めました。大阪・神戸の人達は怖ろしい目にあいましたね。
当日ご友人は避難先で 寒いし水も食料もなく不安だったことでしょう。
そうなんです 離れた高知でも山からの水の流れが変わりました。
日照りでも絶えたことのない 山からの湧き水の流れが変わったと
母が言いました。水源まで行ったけれど地底のことはわかりません。
あさイチで牧野植物園が映りましたか 残念見逃しました。
高速道路の高架が倒れてるのを観て体が震えたのを覚えています。
幸い知り合いには亡くなった人はいませんが、その後の東日本大震災もそうですが
天災が起こると人生が狂わされる人がたくさん出てしまいます。
せめて、これに加えて人災や戦争で失われる命ができませんように、と祈るばかりです。
犠牲者が出たし 交通機関が止まり家へ帰れない人の群れをTVで観ました。
神戸の街は復興してまた都会に戻りましたが 東日本震災の被災地は
いまだに家へ帰れず家族がばらばらになり それこそ人生が狂わされた人が
たくさん出ました。地区全体がいまだに立ち入り禁止で 空き家になった家に
イノシシなど獣が住み着いている映像を見ると 元住人は悲しいでしょうね。
天災だけでなく最近は 戦争もずいぶん身近になりました。
これからどうなるのでしょう。
今回のコメントはパスしようと思ったのですが|_・)ジ~
あの朝の我が家は下から突き上げる揺れで目が覚めたけれど
後の揺れが収まるまでだんなと二人じっと待ちました
その辺りで階下に住む私の母がろうそくを持って
無事を確認するために上がってきました
戦時中の空襲の中生き残った人は気丈です( ▲lll)
あの頃は高槻に住んでいましたが我が家周辺はかなり難を逃れました
実際我が家でも壊れたのはコップ1つと洗面器1つだけ
揺れの方向の通りだったらこうはいかなかったでしょう
あの後その日に母は入院しました
近い病院だったので困る事はなかったのでよかったのですが・・・
もう28年も経つかと思うと色々な思いで
まだ胸の中が揺れているような・・・・
あれから考えたら世界中ろくなことがありませんよね
だんなとあまりに長生きはしたくないよねと話してます
何が起きるかと思うとさっさとあちらに行った方がいいなんて・・・σ(▼▼;)
怖かったです、年月が過ぎても皆さんの心の傷は癒えることが有りませんね、テレビを通じて毎年涙を禁じ得ない思いです、