何処の国が発端でも、戦争はしてはいけない。人が人を殺す行為を、平気でできるとは思えないが、上司からの命令となると、加えて、自分の生命の危険があれば、遣ってしまうかもしれない。朱に交われば紅くなる。とも言うが平常心でなければ。
戦争を始めた人等は、下々の者には、尊い命など存在しない。と考えたのだろう。赤紙さえ渡し、連行すればいいのだから、切り捨ててもどうということはない。戦争をしてはいけない、間違っていると言う者は、引っ立てられた。今から、72年以上前。
この日が来ると、祖母は仏壇の前に、暫く座ってじっと眼を閉じていた。還らぬ息子を想い、涙さえ出なかったものと、今なら察せるが、子どもの頃には、その意味さえ分らずであった。わたくしは、戦争を体験したことはない。亡くなったのは叔父である。
祖母の、足が無くても、手が片方でも、生きてさえ居てくれれば。呻きにも似た呟きだった。戦争は、敵も味方もない。殺さなければ自分が危うい。シベリアで、食べる物も無く死んだ、という風の便りである。子を想う親の気持ちは、いつの時代も変らず。
ご先祖のお墓掃除に行く度に、叔父の遺品は何も帰らずであったのを思い出す。大きな石塔には、骨はむろんのこと無い。魂だけが宇宙を漂っているのだろうか?誰かの命に転じて、新しい人生を生きているのか。祖母が亡くなって、既に45年経つ。
戦争をして、得する者は企業だけだ。大手の会社が丸儲けをして、命の危険に曝されるのは従業員の下っ端である。武器を造るのは公でなく、密やかに人知れずである。それらを買う者がいれば、売る者も当然存在する。地球を滅ぼさないで・・・。
昨年の、白枇杷には、苞の状態で枝先に群れていた。小寒から、少しづつ綻んで咲き始め、辺り一面に芳香を撒いた。