今朝は思いの外寒くてストーブを点けた。午前中に、すばるのトイレを換える予定であったので、ブログ訪問だけをしておいて取り掛かる。普段の排泄はその都度取っているが、シートや砂も臭いが酷くなったら機嫌が悪く纏わりついて離れない。枇杷葉茶を飲ませているからか、期間は長く誰も気づかないでいるが程々に。きちんと指定の場所に置いて暫くすると満足している。
庭の様子も気になるので見廻りに行けば、芍薬は数センチ芽を出しヒアシンスも蕾が見える。枇杷葉の花芽は強風に沢山の残骸があり、生り年と言うのに期待は薄いかな?クリスマスローズの花々も、八重や単の花が咲き誇る。新暦だと思うから早くばかりを急かすが、旧暦でののんびりなら愉しみも増える。自然は裏切らないので、時期がくれば咲いてくれる歓びも大きいもの。
今年の春は長いとのことに納得する。気温の差もあるのだが、花は暖かさに春だと思い咲き出すからだ。白鳥も寒い地域へと移動をしており、皆が是非ともと追いかける翡翠も巣作りに勤しむ頃だ。そういった一連の自然への想いには、人間の都合勝手はそぐわないもの。毎日新聞の日曜版・松尾貴史さんの書かれる ちょっと違和感処か、大いに違和感を感じてしまう。歴史は語る。
これは新暦と旧暦とのごっちゃ混ぜで起きることで、何度も書いてきたが同じ季節ではない。加えてテレビには視聴者へのサービスや都合の良いやらせがある。葉室麟さんの書かれる歴史小説は、そういった解釈の上で読まないと分からない。宮城谷昌光さんのもだ。三月は3月であって決して弥生ではない。風は山河よりに出てくる栴檀も、実際には新歴では5月の中旬になる。
栴檀を樗とも呼び書くが、山に咲いているのを見られるのは時期が異なる。これには江戸時代を境として、明治時代での福沢諭吉に因る書き換えだ。従って、それまで一年は13ヶ月あるのが倣いで、閏月は何等かの季節に填まっていたのだ。歴史小説を読むのには、必ず月の満ち欠けや潮の流れと旧暦での読みが必要となる。七夕等、7月7日では絶対的に逢瀬は無理だわ。
故吉岡たすくさんが、花に早よ咲けと無理をさせているが人間には無理があるのですと話された。菊は秋で菫は春です。地球が温暖化に傾いて、年中何処かしらで見かけたり品種改良で次々に出回ります。花は人間の楽しみの為と思っては咲きません。絶滅していくのも抗議さえしません。皆命です。地球が存在している限り、命の差はないのを人間が都合勝手に変えていく。
旧暦で暮らすようになりだし沢山の気づきや学びに、これまでのわたくしの生き方を顧みれば心が塞ぐ。何という愚かしいことの連続であったものか。そういった反省は誰にも出来ること、今後は枇杷葉での暮らしに心を向けて行こう。太陽が昇れば有難く、月が眺めれば祈り感謝で、宇宙へと翔けていけれる幸せを想おう。年齢相応の衰えは仕方なく枇杷葉に援けられ日々。
庭の様子も気になるので見廻りに行けば、芍薬は数センチ芽を出しヒアシンスも蕾が見える。枇杷葉の花芽は強風に沢山の残骸があり、生り年と言うのに期待は薄いかな?クリスマスローズの花々も、八重や単の花が咲き誇る。新暦だと思うから早くばかりを急かすが、旧暦でののんびりなら愉しみも増える。自然は裏切らないので、時期がくれば咲いてくれる歓びも大きいもの。
今年の春は長いとのことに納得する。気温の差もあるのだが、花は暖かさに春だと思い咲き出すからだ。白鳥も寒い地域へと移動をしており、皆が是非ともと追いかける翡翠も巣作りに勤しむ頃だ。そういった一連の自然への想いには、人間の都合勝手はそぐわないもの。毎日新聞の日曜版・松尾貴史さんの書かれる ちょっと違和感処か、大いに違和感を感じてしまう。歴史は語る。
これは新暦と旧暦とのごっちゃ混ぜで起きることで、何度も書いてきたが同じ季節ではない。加えてテレビには視聴者へのサービスや都合の良いやらせがある。葉室麟さんの書かれる歴史小説は、そういった解釈の上で読まないと分からない。宮城谷昌光さんのもだ。三月は3月であって決して弥生ではない。風は山河よりに出てくる栴檀も、実際には新歴では5月の中旬になる。
栴檀を樗とも呼び書くが、山に咲いているのを見られるのは時期が異なる。これには江戸時代を境として、明治時代での福沢諭吉に因る書き換えだ。従って、それまで一年は13ヶ月あるのが倣いで、閏月は何等かの季節に填まっていたのだ。歴史小説を読むのには、必ず月の満ち欠けや潮の流れと旧暦での読みが必要となる。七夕等、7月7日では絶対的に逢瀬は無理だわ。
故吉岡たすくさんが、花に早よ咲けと無理をさせているが人間には無理があるのですと話された。菊は秋で菫は春です。地球が温暖化に傾いて、年中何処かしらで見かけたり品種改良で次々に出回ります。花は人間の楽しみの為と思っては咲きません。絶滅していくのも抗議さえしません。皆命です。地球が存在している限り、命の差はないのを人間が都合勝手に変えていく。
旧暦で暮らすようになりだし沢山の気づきや学びに、これまでのわたくしの生き方を顧みれば心が塞ぐ。何という愚かしいことの連続であったものか。そういった反省は誰にも出来ること、今後は枇杷葉での暮らしに心を向けて行こう。太陽が昇れば有難く、月が眺めれば祈り感謝で、宇宙へと翔けていけれる幸せを想おう。年齢相応の衰えは仕方なく枇杷葉に援けられ日々。