枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

物語への誘い

2022年01月07日 | Weblog
 寒中の時期に、或いは雪が降り凍てつく空や海に想いが飛ぶ。たけくらべの信如が仏の路に進もうと旅立っていく朝、美登利の手元には紙で作った水仙を残して行く。小川未明の赤い蝋燭と人魚の冒頭シーンで、身重の人魚が荒れる海に半身を見せ岩に懸ける。その情景の清とした深さに、景色を思い浮かべて冬の寒厳さを。

 こういう場面を描かれていたのがいわさきちひろさんで、手元にあるページを捲れば目の前に景色が広がりゆく。絵であったり写真にも、心を惹きつけるものはあるのだと思う。況してや家族同様にしている生き物への愛情は、大きさも重さも計れない。昨年にはアビーが、りんまでも逝ってしまった空虚な想いに眼を瞑る。

 自然は謂わば神であり、その輪廻転生を断ち切ることも繋ぐことも不可能なのだ。命の終えることを知っていても、こちらに気持ちを向けてでないと無理なことがある。だからといって、援けられるかと云われれば答えられません。心の声を聴いて、そう呼びかけての見守ってでしか出来ないのです。りんちゃん、赦してね。

 昨年には、このことで悩み・苦しみ・自らを終えられることを思いました。視える・聴こえる術は、各々異なっているので決して同じという感覚はありません。神さまの個々への与え方が違うのです。ところが自分を制御できなくなって、事態が収拾不可能に陥った。逃げて閉籠ってしまいたかった、枇杷葉に援けられたの。

 言葉には魂もあると信じています。ブログでの書き込みにも、綺麗ごとばかりを並べてのや数が多ければ好いとばかりにボタンを押しての方も。そういう一般的なことが苦手ですから、どうしても離れて行き間遠になる。良くも悪くも見守っていて貰える感覚は、説明できない安心感が大きい。コメントを書かなくても通じる。

 わたくしのブログは、枇杷葉に関することが多く書いていることをきちんと読む気がないと面白くはない。役・薬にも立たないし、活用しないのではとも思えてしまう。固執した想いだし、それがどうなのよと問われればそれまでのこと。ここを覗いてくれた時に気づいて、始めて下さったらの想いは持っても強制は無理よ。

 

 
 

 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする