枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

長月二十三日・小潮

2018年10月31日 | Weblog

 昨夜は、夕方には気温が下がってきて、羽織物だけでは寒くなった。ストーブを点け、大根を煮付けるのに都合が好い。パソコンの部屋には、暖房器具があるが、昼間に干した毛布が温かい。すばると一緒に包まって、うとうととしていた。沢田研二さんの声を聴きながら。シアターは独りがいい。

 枇杷葉の花が、夕方の気配に香りだす。何とも馥郁とした匂いに酔いしれる。身体の健康のリズムには、自然のもたらしてくれる匂いがいいのだ。人工的な香りが悪いとは言わないが、どうにもきつく鬱陶しい。どんなに人柄がよくても、この臭いに閉口してしまう。付けている本人は気づかないが。

 強烈な場合には、すれ違っただけで発疹が出る。季節の風が運ぶ、当たり前の香りに慣れていると、息が出来なくなってしまう。徳江さんが、小豆の声に耳を澄ませたり、木々の揺れる様に返事をする場面に、共感してしまうのは、それが極当たり前の、わたくしの日常だからだ。心で感じて視るの。

 木村秋則さんが、林檎に声を掛けるのも、自然の掟に合っているのだろう。枇杷葉にも同じなことが言える。今年、苞の膨らまないのが、1本ある。昨年は初生りで、結実もし、収穫したのが見えないのだ。心得違いを明らかにされたことが、自然からの掟に背いたことを教える。祈りも感謝も謙虚。

 寒いと、足元が冷えて来るので、入浴した時には、塩でしっかり擦ろう。土踏まずを丁寧に揉みしだくと、ぽかぽかとしてくる。小さめの束子で擦るのもいいが、慣れないとくすぐったいし痛い。蒟蒻を温めて当てるのもいい。寝ていて蹴っ飛ばすので注意しよう。湯たんぽを入れて眠る季節になる。

 テレビを観ないでいるので、世間の噂はさっぱりだ。毎朝配って来る新聞が頼りの日々である。新聞は、活字が印刷されているのと、後の活用方法もあるし、思った時に読めれる特権もある。従って、スマホにはしないでいる。ガラケーの新機種が出たとかで、そっちにする心算だが中々行けないな。

 電話は、固定があればいいと思っている。これは留守電にしていて、滅多に出ないので、勧誘や詐欺には遇わない。尤も、掛かってくれば、相手が窮地に陥る。そういう状態を知らないから、掛けて来た方には、都合よく思えるらしい。こちらは気の毒の感ばかり。迷路に入ったら出られないでしょう。

 手紙か葉書なら、配達してくれるので、不在でも可能だが、何せ日数が掛かる。それを承知で、便りをくださる有り難い方もいて、恐縮する次第。今年は、年賀状を書かないことにしたので、更に音信不通になることと。このブログを訪れてくれていれば、事情を察してくれるであろうが、それが困難。

 実家の周りには、たくさん生えていた。持って帰って植えたが消えた。それがひよっこり生えて。


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