枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

普通の生活

2020年02月22日 | Weblog
 何でもない事だが、普通という意味には、これ以上も以下もないということだろう。だが、その基準がはっきりしないもので、最低の生活であれば望みは高くなり、反対であれば然程に思わないのではないか。年間所得に無関係ではない。貯めるどころか払うことも出来ない。働きたくともすることが出来ない。詰りは、雇ってくれないのもある。

 貧乏は厭だと思わないが、必要最低限の生活とは、一体何を基準にするのか?個人的には、テレビは観なくてもいいが、パソコンはしたいので、諸費用が異なって来る。電気も、全く使わないとなると、暗くなれば眠り、明るくなれば起きればいい。然し、ご飯が炊けないし、風呂にも入れない。薪が無ければどうすることも出来ない。燃料不足。

 山に行って伐って来ていいなら、材料はあるだろうが、果たして可能か。木を伐る鋸も鉈鎌も元手が必要だ。自然環境の立場であれば、山にはある程度の整備が無くてはならない。子ども頃に、祖母や母に付いて行き、風呂焚きの備えをしていた。その手間も日々のことで、しないでおくと風呂は休みだ。無論、水も汲まねばならない。人手不足。

 根本的には、近代化してきた現代では、到底無理な作業であろう。然し、そうなってきて原発の恐怖に晒されている。綺麗で明るく、安心・安全といった世の中の変わりように唖然とする。今時の現状で、こういったことを行うと逮捕される。自分ちで煮炊きをするのさえ、憚らねばならないのも可笑しいが、近辺からの苦情も殺到するだろうな。

 電気会社の社長ではないので、自分の勝手には出来ないし、金を払わねば停められる。生活が苦しいのでと、理由を述べても無駄である。そうなると無宿人となる。路上生活になってしまえばいい。皆他人の痛みには無関心。何処に棲んで居ようがお構いなしだが、何かの時に追い出してしまう。人間が人を差別している。役に立たないからと殺す。

 まあそれも、与えられた物での辛抱であれば、我慢しなければならないのだ。後は、仙人の暮しか、魔女の修業かに転じれば好い。何事にも諦めと辛抱とがセットの世界であるので、これもまた貴重な体験と思って遣ればいい。何時如何なる場合でも、自分を見失わずに生きていける方法を考え、神さまの恩恵に祈りと感謝の日々を送ることだろう。

 旧暦では、一月は殆どが30日である。中には閏月が入ることもあるが、閏年ではない。昔の人が考えたことの意義には、天文の移り変わりと、農耕への維持があったからで、それを参考にして、月日が経っていたものだ。あらまほしい暮らしでもあった。今の生活が追い立てられ息苦しいのも、きっと気持ちへのゆとりが欠けているせいかもなぁ…。

 宇宙を観たり、夜毎の有様を眺めたりすることに、古来は大きな意味があった。昨今は、感能力が衰えた。

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