故人となった者へのお参りを、月々するのには、相当思いを強く持たないと挫ける。Sさんの亡くなったのは、早5年が来る。行けない時もあるが、続けてはいる。母は、昨年だから1年にもならない。勤務先では休みに、希望休というのがあって、どうしても休みたい日をもらえる。その2日を、Sさんと母とにしている。
既に、日付は変わったが、10日のこととして記載する。昨日は、その希望休で、実家の母の元を訪れた。暑く蒸せるので、蝮でもいたらと用心をして、長靴にお守りを持参しての墓参りだ。我が家で採れた枇杷を、母に食べさせたく持って行った。生前、この枇杷を食べさせたら、うれしそうに頬張った母である。
お墓から家の方に下り、人の居ない廃墟に、もの寂しく佇んで居て、踵を返そうとした時だった。ど~んという耳鳴りが聴こえた。はっとして音の方を見遣ると、母が笑顔で立って、手を振っている。兄や妹には、この家の哀しさがわからないのだろうか。風を入れ、お位牌を拝んで、お供えをしてあげなければ。即ち、自分を否定することになるのに。
母の初盆には、この庭で迎え火を焚き、お供えをして、懇ろに弔って送ってあげたい。誰がどうというのでもなく、心から祭ってあげないと、あちらには往きつかない。生かされていることを感謝し、祖先を敬うことは、やがては己も使命を終えれば辿る道であるのだから。自分の存在には、己の命を与えてくれた祖先がいてこそだ。
実家の山肌には、我が家で飼っていた2匹の犬も眠っている。短い生涯であった。銀河より早く我が家に来たが、引越しで実家に連れて行って、数年後相次いで死んだ。それからいくと、銀河は長生きである。それだけに居なくなって、心が寒々とする。今は、庭で静かに眠っている。毎朝、お供えは欠かさない。
小さな青紫の鈴が鳴るようだ。毎年、健気に咲いてくれる。緑の実は、ブルーベリー。