枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

徒然思うこと・・・

2011年07月11日 | Weblog

 故人となった者へのお参りを、月々するのには、相当思いを強く持たないと挫ける。Sさんの亡くなったのは、早5年が来る。行けない時もあるが、続けてはいる。母は、昨年だから1年にもならない。勤務先では休みに、希望休というのがあって、どうしても休みたい日をもらえる。その2日を、Sさんと母とにしている。

 既に、日付は変わったが、10日のこととして記載する。昨日は、その希望休で、実家の母の元を訪れた。暑く蒸せるので、蝮でもいたらと用心をして、長靴にお守りを持参しての墓参りだ。我が家で採れた枇杷を、母に食べさせたく持って行った。生前、この枇杷を食べさせたら、うれしそうに頬張った母である。

 お墓から家の方に下り、人の居ない廃墟に、もの寂しく佇んで居て、踵を返そうとした時だった。ど~んという耳鳴りが聴こえた。はっとして音の方を見遣ると、母が笑顔で立って、手を振っている。兄や妹には、この家の哀しさがわからないのだろうか。風を入れ、お位牌を拝んで、お供えをしてあげなければ。即ち、自分を否定することになるのに。

 母の初盆には、この庭で迎え火を焚き、お供えをして、懇ろに弔って送ってあげたい。誰がどうというのでもなく、心から祭ってあげないと、あちらには往きつかない。生かされていることを感謝し、祖先を敬うことは、やがては己も使命を終えれば辿る道であるのだから。自分の存在には、己の命を与えてくれた祖先がいてこそだ。

 実家の山肌には、我が家で飼っていた2匹の犬も眠っている。短い生涯であった。銀河より早く我が家に来たが、引越しで実家に連れて行って、数年後相次いで死んだ。それからいくと、銀河は長生きである。それだけに居なくなって、心が寒々とする。今は、庭で静かに眠っている。毎朝、お供えは欠かさない。

 小さな青紫の鈴が鳴るようだ。毎年、健気に咲いてくれる。緑の実は、ブルーベリー。

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時は廻りゆく

2011年07月09日 | Weblog

 PCの調子がどうにも悪かった。その間に、リエさんは子猫を飼いだし、浜さんは、蕁麻疹が治ったようだ。体調を崩していたのは、私もだが、実は薬が合わなく、体中が痒くなるし、意識は混沌とするわで、混乱状態であった。しかるにPCも、波動を感じ取ったのか?機嫌の悪さは私を超えた。なんとか枇杷葉で復活したが、それにしてもしんどかった。

 体温は35.6°が平熱な私は、36℃にもなろうものなら、しんどくてかったるい。37℃もなると、ふらふらする。車の運転が不能になる。従って、冷房を入れられると、冬眠状態で動けなくなる。スイッチの入り方が、どうも違っていて困るのだ。というか、空気が流れる方向や、溜まる毒素がたまらない。でもそれが、他の人には全くない。臍を噛むしかない。

 浜さんも、枇杷葉を伐ってしまったため、急遽こちらから送ったのだが、今年には新芽も伸び、実も数えるほどだがついている。と言う。枇杷葉の生命力の素晴らしさだ。環境に応じて空気を清浄にする働きもある。人間の体内を浄化するのだ。放射能にもありはしないか。毒には毒で征するのが、自然の掟には最もではないか。

 東電の事故は天災である。と言うが、人災に決まっている。原子炉を造らなければ、今回の地震や津波が来ても、ここまで人間を殺しやしない。プルートは地獄の王。これを征するのはオルフェウス唯一人。それも、1回きりで2度はない。広島や長崎に、原爆を投下されていながら、自分には関係ないと造った。愚かな東電である。

 またそのマニュアルには、主婦向けや若者向け、あらゆる年代への、対応の仕方が作成されてあるそうです。これが人災でなくてなんであろう。騙される方が悪いとばかりに、悪知恵を働かせている。東大での人間には、どうということもない策略です。電気がなくて不自由と言うなら、それもいい。スローライフで暮らし、捨てない贅沢を実践すればいい。

 人間は、何一つ自分では作り出せない。他の命を戴き、生きている。野菜も肉も同じだ。メディアがくだらない放送をして、庶民の感覚を麻痺させ、感情のコントロールを不能にする。働かされ、その得た報酬で、なくてもいい物を買う。贅沢なことだ。言い換えればもったいない。旬の物を食べ、満足しよう。

 神さまは、厳しい試練を乗り越えられるよう、人間の能力を試している。満足することをしないと、足らない、もっとくれ。と、暴走させる。即ち、命との引き換えが待っている。 白いシラン。霜がかからなかったのか咲いた。                   

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不思議は傍に・・・

2011年07月08日 | Weblog

 銀河が居なくなって久しいが、どこかしらに、姿が視える。同時に、重量を感じる。とても居なくなったようには思えない。りささんが、『今頃は光になって、あっちとこっちを自由に行き来しているのでしょうね。姿は違っても、呼ぶと瞬時にそばに来てくれるのだそうですよ』と、メールをくれました。そうだね、銀河。姿もちゃんとわかるし、声も聴こえるよ。

 不思議というが、そうではない。生き物は、生まれては死ぬ。そうして命を渡して、時を超えて往くのだ。猫や犬にもあり、麦や枇杷葉にも命は宿る。ミジンコやゾウリムシにもある。人間は、あらゆる生き物の命を食べ、平然として不足を放っている。自然のしっぺ返しを、どんな形で受けるかは、想定外なことだろうか。

 これまで人間は、豊かさを求め、便利と快適さを思い描いて来た。だがそこには、人間の思い上がりがあるだけで、自然への恐れや敬いはない。科学的な解明で片付ける。間違ってはいないだろうが、或いは過ちは犯していよう。原爆で、今尚苦しむ人を置き去りにし、原発の事故の責任もあやふやな現状で、再稼動を容認しろとは。

 地球を滅亡させたいのか。木っ端微塵にしたいのか。これが常識のある、肩書きを持った見識者とは。あまりのお粗末さに、言葉がない。まあ、メディアに乗るという手段は、電力会社と金銭的な契約を交わした。という事実でもある。お詫び会見など、悪いと思っていない証拠。昔の怪談より恐ろしい話だ。

 人間の心理は、正直なもので、他人を批判したり、中傷する場合、自分のことを喋っているものだ。但し、正常な状態でのこと。認知症が進んできた場合、内面に隠れている断片が不意に現われることがある。自分の物と、他人の物が認識、区別できない。また、その思い込みが強くなり、自分の物にしたがる。極少ない確率ではある。

 挿し木で増えた薔薇。最初に買った苗木は枯れた。挿し木にしていたのが増えている。

 

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相手の心を汲む・・・

2011年07月07日 | Weblog

 偉い人。というのは、一体どんな人を言うのだろう。財力や地位があることか。知識が豊富なことなのか。小さな組織の中では、どんなに威張った所で所詮は、井の中の蛙である。或いは、偽者の鴉に過ぎない。井戸の中の蛙は、世間知らずな蛙であり、孔雀の羽をつけて、美しく見せようとした鴉も、カナリアの声だけは真似できなかった。

 自分を知るということは、与えられている命を感謝し、風の声を聴き、光を感じ、雨の匂いを嗅ぐことで、その様々な色合いを、図ることにもあろう。自分の命を愛おしく思えば、相手のことも好ましい。愛情は、何時如何なる場合にも、押し付けない、与え過ぎないことに想える。況してや、心の歪みを正すことにもなろう。

 枇杷葉を知って、その活用法をいろいろ試してみて、自分にあったからといって、教えられる範囲は難しい。副作用もなければ、殆どの人に合うが、極稀に反応が違うこともある。信じる気持ちにもよるが、個人差が出るのは否めない。唯、自然の環境に於いては、土や気温、水に左右することが多い。何より、育む者の心がけが大切なのではないか。

 自然は、神である。そのことを祈り、感謝してこそ、恩恵を与えてもらえる。また、その心を相手に伝えたく思っても、屈折した心には届くことがない。自然の与えてくれる命には、金額は値しない。だからこそ意に添わないと息が止まる。けれども、人間でなかったら、いとも容易く捨てるのだ。それは何故なんだろう。

 テレビで、やらせをさせるのは、単に視聴率をあげるため。くだらない番組でも、観てくれなければ意味が無い。宇宙を見上げて、星の瞬きを心に留めるのは、自分の意思でないと観れない。その想いの差が、心に影響するのは、わかってはいても、楽であったり、簡単な方を選ぶものだ。苦しいことや、日数や年数のかかることには向き合わない。

 桃色のミニバラ。お菓子のような色が、食欲をそそります。

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枇杷葉の実、終わる

2011年07月05日 | Weblog

 最期まで、枝にあった枇杷葉の実を採る。1枝だけは、なぜか熟れていず、袋をかけ直す。とてもきれいな粒で、輝いている。Aさんも実を捥いで、焼酎に漬けていた。レモンと砂糖を入れたジュースもあった。我が家のは、どの粒も腐るということがなく、甘酸っぱさが特長だが、Aさんちのも、種だけもらったところのも、枝で腐っている実があると言う。

 我が家のは、糠と塩だけの肥料だが、どうして違うのだろう?待てよ、同じやり方であっても、土も空気も温度や水分だって異なるではないか。自然の物は、自然の力を貸してもらうのだ。同じ条件ではない。最も大切なことは、恩恵を感謝し、収穫の歓びを分け合うこと。そうでなく、できすぎたことを毒つけば、自然の怒りをかう。

 人間は、決して何も創り出せないのだから、神に祈り、感謝することを忘れてはならない。然も、心からの想いでありたいもの。だからこそ、我が家の枇杷葉は、食べてもらいたい人に送っている。皆で分けてこそ、美味しさも増す。りささんは、ご実家に持っていかれたそうだ。すみませんね。お隣から戴くらしいので、どうしようかと迷ったのです。

 枇杷の種つるりと二男一女かな 某新聞の季節の句だが、なんともにんまりとしてしまう。枇杷葉の書画を描いているが、杉田久女。瑞々しい上に艶やかな枇杷の実だ。つい、手が出そうになる色合いです。白枇杷は、今年は3粒でしたが、果実に少し濃厚さがありました。白枇杷の結実の待たれたことが、感無量の想いです。

 梅雨明けを待って、お礼肥えを遣りましょう。種も、艶やかな輝きです。他所でいただいたのは、虫が入っていたり、腐っていたりしていますが、我が家のは、種からも微かないい匂いがする。神さまのおわします庭でしょうか。桑の木にも感謝です。Aさんがジャムを作ってくれましたが、美味しいのです。舌触りが最高です。

 鉢植や、地植にしている数本の枇杷葉。今年は3年目です。木丈は、1mくらいです。庭中が枇杷葉になっています。

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白枇杷の生る

2011年07月04日 | Weblog

 先月中は、未だ青かった白枇杷も、そろそろ熟れてきたか?と、袋を外した。きれいな夕焼け色になっている。3粒が顔をのぞかせた。東の川に面した枇杷葉も採る。うひゃぁ!でかいよ!!鶏の卵だ。こちらの枇杷葉は、どういう訳か1粒しか生らない。昨年は全く生らず、今年は寒冷紗で囲った。う~ん、やっぱり剪定しよう。

 枇杷を、植えようと考えた、そもそものきっかけは、体調維持に効果があると認識していたからと、自宅の藪に、樹齢何十年もの枇杷葉があったから。祖母は、効能に詳しく、無医村の暮らしには欠かせない薬草と知っていた。夏場の汗疹を始めとして、切り傷、擦り傷、捻挫や打ち身の手当に重宝していた。

 祖母が元気で居た頃には、医者が大層な持て囃され方で、医者様であった。昨日まで、祖母の力に頼っていた者が、今日には手の平を返す態度で医者に行く。祖母は無学であったが、無知ではなかった。誰かが困っていれば、黙って手を差し伸べる人だった。哀しいかな、資格や学力、財力の前には、太刀打ちできない貧乏だった。

 祖母には、8人の子があったが、幼いときに亡くなったり、病気であったり、戦争で殺されたりし、女ばかりが残った。祖母は夫も亡くし、女で一つで遣り繰りをした。手先が器用で、殆どを作った。他人に頼らず生活できる工夫を試みた。小学生の頃の記憶が真新しい。何もかもがゆったりであった。自然と暮らし、自然に生き、我慢を強いられていた。

 青いデルフィニューム。澄んだ青い色が鮮明です。

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旧暦は、水無月

2011年07月02日 | Weblog

 水無月、とは。水不足をいう。日照の状態です。旧暦と新暦は、1ヶ月ずれます。従って、新暦では、季節感に疎く、何となく違和感がありますね。夏枯草が咲き終えました。ドクダミジュースが醗酵して、リンゴの匂いになっています。成功です。出来上がりが楽しみです。

 雨が降りそうな天気です。もう少し枇杷葉の実を、枝に残しているのが採りたく思う。空を、見ていたが止める。明日、孫たちが来るので、一緒に採ろう。仕事に出かけ、帰宅する。夕立があり、凌ぎ易い。ありがたや。

 枇杷葉の種を、焼酎に漬け、1年以上置くと、杏仁の香りも絶妙な、エキスが出てくる。これは化粧水にもなるし、虫刺されや痒み止めにも効く。或いは、擦り傷や切り傷にも、スプレーか、患部への塗布であれば、とても効果がみえる。

 打ち身、捻挫には、枇杷葉の葉がいい。これらは焼酎に漬けておいた葉を、布に包んで患部に当てる。特に、腰痛にはよく効く。腰は、冷やすのがいけない。温かくしていればいいのだが、夏場に懐炉は無理がある。冷房を利かせた部屋で、つけますか?

 一朝一夕には、体はついてはいけないが、枇杷葉湯をたっぷり飲んで、体の組織細胞を入れ替え、その上で夏の暑さを乗り切ってほしい。江戸時代には、熱中症の予防に、市中を売り歩いていたと言います。最も、外の薬草も入れてです。

 きらん草、夏枯草、みこし草、桔梗、おおばこ、すぎな等、ブレンドミックスを、枇杷葉と混ぜて煎じ、暑さ当たりに飲んでいたようですね。夏場の、冷たい飲み物は、体の機能を低下させますから、できるだけ温かな飲み物をいただきましょう。同時に、汗をしっかり出す。

 

 やさしい色の金魚草。我が家の庭には、色とりどりの金魚が泳いでいます。時々、ペンギンやミジンコも泳いでいます。きっと、異空間ともつながっているのかもしれない。

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自然のエネルギー

2011年07月01日 | Weblog

 枇杷葉の実が熟れている。通勤途上にもある。隣接する小学校の、体育館裏にもある。今年は豊作で、たわわに生った枇杷葉の実が揺れる。♪ゆりかごのうたをカナリアがうたうよ。ねんねこねんねこねんねこよ。野生の枇杷葉は、摘芽をしないから鈴なりで、鴉が狙っている。鴉は利口だと言うが、枇杷葉の実を食べるからだろう。

 明るい太陽の光か、それともやさしい月の光の滴か。きっとそのどちらもだろう。淡路島へ枇杷狩りに出かけた最初の農家で、お爺さんが教えてくれたのが、寒肥の糠と塩だった。猪が来るのだが、瑞々しいのと、味のばらつきがない。土は、軟らかくふわふわだ。品種は田中であった。その種も植えていたが、サンタさん枇杷だけになっている。

 リエさんやサンタさん、りささんに送ったのは、茂木枇杷です。1枝に2~3個がいいのを、そのままにしているため、粒が小さくなる。今年は、花芽の段階で、半分以上を摘芽したのだが、寒冷紗をかけたからか、枝が撓るほど生った。雨が多かったのだが、味が抜けなかった。自然が力を貸してくれたのだ。

 枇杷葉のエネルギーには、計り知れないパワーを感じる。我が家の枇杷葉を知っている人には、食べてもらうのは容易いこと。個数も納入期限も決まってはなく、自然任せで送るのだが、味には定評がある。それだけは自信を持って言える。唯、大勢の人に送れないのも、約束できないのも、相手が自然であるからだ。

 毎年、一日いちにちを祈りながら過し、一喜一憂しつつ、枇杷葉に葉や実を採らせてほしいとお願いする。自然の恩恵を戴くのには、常日頃の感謝以外にはない。決して、人間の都合勝手はなく、歓び、驚き、心配、案じての感謝である。自然のエネルギーとは、そこにある命を頂くことになるのだ。『いただきます』とは、そういう意味なのです。

 白いラナンキュラス。春の庭を彩る、様々な花が、色んな場所で、咲き競っていました。

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