マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

うどん・ドーナツ

2012-02-19 22:39:36 | 

関西に限っての話かもしれないが、いい蕎麦屋・うどん屋は“在”にあり。

蕎麦はなんとなく分かる。空気や水のいい鄙びた田舎家で食べた方が雰囲気である。
実はうどんもそうで、ちょいと離れた場所にひらくと家賃や地代を圧縮し、原価の方にかけられる。

街の真ん中で踏ん張ってる名店は少数派で、見渡せば、真中はぽっかり空き、
周辺部へと分布する、ドーナツ化現象ともいえる。まぁ、どちらも原料は小麦粉な訳でね。

今や関西讃岐うどんはすっかり定着し、力のある店はどこにあっても客が呼べるという塩梅。
こちらの店も堺の在。 深井駅からさらに村の中へと入った、他に店なんかな~んにもない場所。


一度目は村の中をぐるぐる廻り、ようやく見つけた時には営業時間終了。
二度目は貸し切りで入店できず。ここまで来て、木戸を突かれるとなかなかつらいものがある。

ってことで三度目にして、ようやくありつけた。
開店時間まもない、「どとうぜにや」へ。






どこから見ても、普通の家である。 
のれんがかかってなかったら、確実にスルーしてしまう。
のれんに“島田一の介”の名前。
外にいらしたお父さんに聞くと、お母さんの出身地が師匠がスナックをひらく尼崎だそうで。





ガラガラと引き戸を開けて、靴脱いであがる。
街中では味わえない、のんびりした気持ちになる。
メニューを眺めている間にも、次々に客が入ってくる。




わざわざ来るのだから、常食向きのその辺のうどん屋ではない、ちょっと上等うどん。
「ちく玉天ぶっかけ」750円

本当は温かいかけうどんの方が好みだが、冷たい方が手打ち麺の真価が表れるので
そちらで。





名物まんまる天うどん 980円

屹立したる海老天と焼きちくわ天が支え合い、「人」という字になる。

長い棒に短い棒~支えあったら人になる 
支えるから人なんだ 支え合うから人なんだ~
(詞 サキタハヂメ  歌 ムッシュかまやつ)






サイズがわからないので、お茶のコップを。

他に半熟卵天、なすと大葉天。 刻み海苔に削りかつお。

麺はしっかりとしてグミの弾力と歯触り、のどごしあり。 

ときとして、こうした剛麺系をすすり込むのがしんどい時もある。

たぶんこれが咀嚼、嚥下できなくなったら、もう老人なのだろう。 なんとかセーフ。





玉子をつぶして麺にからめながら。

くくっ・・・たまりませんな。

食べても食べても減らないのは、腹へりんには嬉しいところ。

堺まで行って時間が許せば、わざわざ行っても損のない店です。



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おばはん、頼りにしてまっせぇ

2012-02-17 02:08:01 | Weblog

一昨年、大阪堺・北野田で行われた新国劇の残党たちの劇団、
劇団若獅子の公演で、「蛍火~お登勢と龍馬」を観た。

ライフワークとされたお登勢を演じたのは、淡島千景さん。
松竹入りして小津作品などにも出ていたが、
オダサクファンの私どもにとって淡島さんというと昭和30年の「夫婦善哉」に尽きる。
放蕩な夫柳吉のために苦労する蝶子。生活の疲れも見せず、初々しくきれいだった。

東京出身を感じさせない、見事な大阪弁。
さすがは宝塚の名花。手塚治虫がリボンの騎士で描こうとしただけの女優だ。






そういえば、宝塚出身でもこの人ほど男性の噂も聞かず、
凛とした存在は周囲にはいないのではなかろうか。
久慈あさみ、乙羽信子、寿美花代、憧れて名前を付けたという扇千景、
八千草薫、朝丘雪路…独特の鷹揚さはあっても、この方ほど清廉で一本筋の通った
存在はそうはいないと思う。

女優であり、教師であり、宝塚を退団して女優道を進む、ひとつの目標がここにあった。







5年前、中日劇場「あかね空」で拝見して以来だった。
貫禄は感じても、まったく老いは感じない。
初々しい感性は持って生まれたものなのだろう、
実際は老境に入っておられるだろうが、それは変わりはなかった。


楽屋にお訪ねし、出て来られた淡島さんは
千秋楽だったので、忙しく片付けに取りかかっておられた。


「こんな恰好でごめんなさい…」と楽屋着の淡島さんは、
髪もざんばらで、私ごときに言われたくないだろうが、
きれいなおばあちゃんになっておられた。
写真を撮ろうとした同行者に、柔らかく制して立ち話を。
そりゃそうで、このお姿は撮ってはいけない。瞼でシャッターを切るべし。
舞台との変わり身が鮮やかで、さすがは女優さん、お見事と拍手したくなった。



享年87歳。 最期まで舞台に立ち続けた。 合掌


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バレンタイン、醤油かソースか

2012-02-15 03:58:38 | Weblog


こういうのを生み出す力は、女性スタッフの発想なのだろうか。


ここは無邪気に喜びたい・・・ね





バレンタイン豚まん!!


ははは・・・いっただきました~! ヒッヤッホゥ~!







もらったといっても、惚れた腫れたでも、仕事上の義理だてでもない。
腰痛だの脚痛だの言ってる亭主を不憫に思い、
家人が予約までして買ってきてくれたのだ。 以て瞑すべし。


いつもの豚まんに比べると、若干小ぶりか。
ハートのくびれになっている分、生地が節約できる。
2個買ったが、家人が手にした1個は上げ底が顕著で、
なんだかあんの入りも悪かったぞ。
味はいつもの感じ、まぁ、そうぶーぶー言いなさんな。


さて吉本の芸人には、熱烈な二見派がいるが、ボクは幼少時から蓬莱そだち。
二見もかたくなに、店を広げようとしないのは見上げたものだが、
ボクにはあのあんが少々豚臭く感じられ、生っぽい玉ネギがちょいと歯にさわる。
蓬莱は加熱した玉ネギの甘味を上手に生かしている気がする。







ハートを大胆に割って、片方は辛子醤油で、片方はウスターで食す。 
もちろん味はついているのだが、大阪人の性分なのだから仕方がない。


たしか新大阪の出店が豚まんの売り上げ最上位だった。
土産にするのは大いに結構だが、車内で赤箱あけて食べるのだけは
勘弁してもらいたい。
つれの女性を口説きにかかっている最中、
どこからかあの匂いがプ~ンとしてごらんなさい。
興が削がれること、この上なし。

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ちょこざいな

2012-02-12 17:20:21 | Weblog


          
     

本気でもらうチョコなんて域はとっくに脱してしまい、かえって気持ちを込められても迷惑なのだが、
なんにもなしのずんべらぼんだと、やや気分の悪いバレンタイン。


なんとなく我々の年代ぐらいから始まったような気がして、
それ以前に都会では行われていたのか気になり、ちょっとだけ調べてみた。

戦前、モロゾフが神戸の英字新聞に載せたのは在日欧米人読者層に限った。
戦後、菓子業界は何度となくバレンタインを根付かせようと試みて来たが、
68年にソニープラザが打ち上げるも、やはり不発に。


             



ブレイクのキッカケとなったのは、やはり70年万博とみられる。
万博以降、生活様式の西洋化が進み、ボクの同級生女子たちは中1で知るも、
大人のイベントと思っていたらしい。


こんなおいしいイベントに飛び付いたのが、少女雑誌だった。
「チョコを武器に堂々と女子から告白できる…」とマスコミが煽りたて、
一気に多感な中学生女子たちは浮足立ったと聞いた。
ネットにも“70年代前半、小学校高学年から高校生までの「学生層」から広まった”とある。 
ああ、我々はまさにこの真っただ中にいたわけだ。
 
 
 

             



東京の娘らはさすがに情報も早く、小6ですでに渡してたとのこと。 クソませガキがぁ。

我々、大阪堺の田舎の中学にまで伝播するのは、中2の時。
廊下で渡されても、それほど驚かなかったので、ボクも薄々は知っていたのだろう。
でも、「も~ろた、もろた~」とヌカ喜びできなかったところを見ると、まだそれほど一般的ではなかった。
間に入った世話やき婆ぁのような女子に、
「ね、ホワイトデーいうのがあるん知ってる?」と言われ、
袋入りのマシュマロを買ってお礼に返した。
舶来のチョコとマシュマロで、差し引き得したのを憶えている。


          (チョコの画、お借りしました)



そんなこって、我々世代がバレンタイン・ファーストゼネレーション(第一世代)なのである。
バレンタインというイベントが始まったと共に、我々の人生も動き出したようである。

今や高級なチョコレートも世の中いっぱいあるが、
なんぼ食っても、お菓子屋で売ってる板チョコみたいなのが一番口に合う。
つくづく安物の舌を持ち合わせたもんだ。


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堺の自慢、ちゃりんこ・和菓子・うどんすき

2012-02-10 14:39:42 | Weblog

過日、訪れた堺宿院の「美々卯」。 
ご先祖は耳さんという姓だ。創業者薩摩平太郎は堺の料亭「耳卯楼」の四男坊として生まれた。
「伊勢長」「瓢樹」「つるや」などの名店で庖丁修業。その後、堺の「ちく満」で蕎麦を教わり、
大正14年、南区久左衛門町でそば・うどんの店「美々卯」は産声をあげた。





うどんすきを考案したのは昭和3年ごろっていうから、うちの母とほぼおない。
素材は吟味し、穴子などは堺の深清から地物を運ばせた。
一籠1円50銭。今の価格で1万円ほどになったという。
それでも客の人気は増すばかりだったそうだ。





料理や器に見るべきものがあるのは、創業以来。
平太郎は目の肥えた数寄者でもあった。
大阪の実業家たち常連の中には、画家の菅楯彦や吉井勇、谷崎潤一郎などの顔もあった。
妻きくさんの、気取りのない細かい気遣いが大層評判だったという。





本店のある御霊神社裏は、心斎橋が賑わう以前の繁華街。
神社内に人形浄瑠璃があり、船場の旦那衆はここいらで酒食を楽しんだ。
「一宝」の前身・天寅も、かき揚げで有名だった「梅月」もこの界隈にあった。

だが戦災ですっくり焼失。戦後すぐ平太郎は没し、名物女将キクは80歳まで生きた。





冬だってのに、凍結酒なんぞをいただく。

キクは晩年、本店から徒歩圏内にあった隠居所の前に小机出し、
ビニール袋に天かす、穴子の頭を入れて無人で売っていたそうだが、
ボクは母に連れられて見たその光景を、かすかに記憶している。
「半助アリマス」。

鰻や焼き穴子の頭を豆腐や葱などと一緒に炊くと、いいだしが豆腐に沁みる半助豆腐となる。
美々卯の大女将のくせにケチくさい…と思うなかれ。
始末のこころ、最期まで使い切る、無駄を出したくないという気持ちを持ち続けたということだ。





天ぷらもカラリと揚がり、実に結構である。





さて、美々卯の看板、登録商標のうどんすきが登場。
炊き込んでも伸びないように調整されたうどん。
寒い時はこれに限る。

かつて堺の実家で配達をたのんだら、材料を鍋ごと持ち込んでくれた。
今は知らない。





仲居さんが見た目もきれいに、鍋の面倒をみてくれる。
客に任せたら、グチャグチャになったりする。

だしも最後の最後まで飲み干したい。





ひとつだけ自慢させてもらうが、過去に薩摩卯一会長に取材させていただいた際、
すっぽん入りのうどんすきを食べさせていただいた。 すっぽんだぜ、あなた。
これはもう、むちゃくちゃ美味かった(接待用の特別誂えだろうが、要予約で食べられる筈だ)。

精がついてどエライことになりそうだが、なぜか、くしゃみが始まり、洟が止まらなくなり、
アレヨアレヨという間に風邪をひいてしまったという、みっともない体験がある。
食べ慣れないものは身体によくない。

コメント (6)
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