千 葉 市 戦 没 者 追 悼 式
平成23年10月14日(木)14:00開式
於 千葉市市民会館
会場案内板 千葉市受付担当の皆様
先の大戦にて尊い命を落とされました4200余柱のご冥福を祈る 「千葉市戦没者追悼式」が千葉市消防音楽隊の皆様による演奏が流れる中2時開式に厳かに執り行われました。
式典には熊谷千葉市長様を初め、市議、県議、国会議員、母子推進委員、民生委員他多数のご来賓の皆様、遺族関係者約400名が参列されました。
千葉市遺族会会長 「追悼のことば」 遺族代表 川上 智子様 「思い出のことば」
ご来賓、各関係会長様の「追悼のことば」に続いて、遺族代表「思い出のことば」が奉読されました。
今年度は千葉市花見川区にお住まいの 川上 智子様 でした。
「お父様の戦死の日に生を受けましたこと」「戦争遺児は私たちの代で終わりにしたい」等々を丁寧にお言葉を述べられました凛としたお姿に会場の皆様が感激と共に
熱き思いにハンカチを目にして 「とても立派でした」 との感想が多く耳に届きました。
95歳になられたお母様を会場にお迎えして、お父様への想いを奉読されましたことに「親孝行ができました」と語りながら、貴重な機会を与えて頂きました千葉市遺族会
鈴木会長様に感謝を申し上げたいと述べられました。
ご本人のご了解を頂きましたのでここに全文を綴らせていただきます。お目を通して頂けましたら有難く存じます。
「思い出のことば」
父への想いと鎮魂の言葉
本日茲に、千葉市長、熊谷俊人様をはじめ、多数のご来賓のご臨席を賜り「千葉市戦没者、戦災死没者追悼式」 が執り行われますことは、私共遺族にとりまして誠に有難く、
千葉市遺族会を代表致しまして厚く御礼申し上げます。
又、此の度の東日本大地震で亡くなられた方々、及び被災された多くの方々に心よりお悔やみを申し上げます。
戦後66年が過ぎました今年3月「戦没者遺児による慰霊友好親善事業20周年記念洋上慰霊祭」に全国からの362名の遺族代表の方々と共に参加させて頂くことが出来ました。
3月5日に神戸を出港し、大和沈没地点、父の戦死したバシー海峡、シブヤン海、フィリピン沖、小笠原諸島近海など約7500キロを航行しつつ合計13回の洋上慰霊祭を
執り行いまして16日に神戸へ戻って参りました。
11日には東日本大地震発生の船内放送が有りましたが、テレビも携帯も不可の異国の洋上では連絡を取る事も出来ず、何とも不安な日々が帰国するまで続いたものでした。
それでは私の父についてお話しをさせて頂きたいと思います。
私は父の顔を写真以外には知りません。父は「戦艦武蔵」に乗っており、昭和19年10月24日のシブヤン海海戦での 「武蔵」 沈没に何とか一命を取り止めました。
しかしながら1ヶ月後、内地帰還の折り、バシー海峡を商船“さんとす丸”で航行中、敵の潜水艦の魚雷攻撃を受け、わずか数分で海中に没したと、生き残った戦友の方から
お話しを頂きました。
今回バシー海峡にての慰霊祭では島影1ツ見えない大海原に、あまたの軍艦、徴用船が沈没し、そしてそれらの船と共に何千メートルの海底に散って行かれた多くの英霊の
方達は、どの様にして、又どのようなお気持ちで亡くなられたのか、考えれば考えるほど切なく、哀しい気持ちでいっぱいになりました。
父がバシー海峡で亡くなりましたのが、昭和19年11月25日未明で、私がこの世に生を受けましたのも同じく、昭和19年11月25日午後1時半と妊婦手帳に記載
されています。
ここに母の歌があります。
「あまりにも 奇(く)しき運命(さだめ)よ いとし子は 父みまかりし日にぞ 生まれる」
父と母の結婚生活は、職業軍人であった父が乗っていた船の寄港地での生活が主で日数的には1年もなかった様に聞いております。
母も今年、数えの齢、96歳になりました。私が結婚した時に、母から父の手紙を渡されました。
父のことを何も知らない私は1人の男として、又軍人としての考え方、両親、兄弟、知人、そして妻への気持ちを手紙からしか知る術はありません。
陛下の為、国家の為とはいいつつも延いては家族を守る確固たる信念は、今の私には考えられない程の強いものであったと思われます。
父の手紙を読んでみたいと思います。昭和19年5月15日にに届いた手紙です。
「呉の生活の思い出も、新たに、萬、波、荒れ狂う洋上の一線に来ている。體は益々強健の度を加え、来るべき時に備えているから、ご安心ください。
長いようで短かった期間ではあるが、有効なる時であった。中でも父となる喜び溢れている此の頃は、決戦の庭に立つ喜びと共に世界第一の幸福者と思っている。
遠からず身を捧げなければならない時も来るだろうが、大義の為に俺も喜んで散って行こう。
御前も 屹度(きっと)喜んでくれることと思ふ。(しかし、それは最後の時と考えたときにのみ)
お前も母となる体なれば、充分に注意して立派な陛下の赤子を世に出してくれる様祈っている。
今のうちから子供の修育をする事だね。何事にもこだはらずに、よい日本人となる様に心掛けるべきです。
不足を言わず、いつも感謝の念であってほしい。
お前の事であるから間違いはないと思ふが、その1つ1つが子供に移る言ふ事を聞いています故に、母の行こそ大切と思う故、書きました。
「たとえ身は 千尋の底に沈むとも 安らじおくや 日の本の国」
又、他の手紙には「今、23時、南十字星をみている」 との件がありました。
私も今回の洋上慰霊航行中の3月10日、マニラ上陸の日、まだ夜の明けきらぬ朝に、煌々と輝く南十字星を見ながら、「平和」 の2文字を強く強く感謝した事でした。
しかし残念ながら、今、この時でさえも世界のどこかで家族、民族、国家を守る為に戦っている人々が大勢います。
それ故、私たちは「平和」の大切さと有難さを、子や孫達にしっかりと伝えていかなくてはと考えます。
又、二度と戦争を繰り返さない事を戦没された尊い英霊の方々に誓わなくてはなりません。
そして、戦争遺児は私たちの代で終わりにしたいと切に願っております。
私も彼岸に行った折りには父に問うてみたいと思います。
貴方の考えていた様な国に、又、娘に育ったでしょうか?
最後にご来賓の皆様、並びにご遺族の皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げて、私の「父への想いと鎮魂の言葉」 とさせて頂きます。有難うございました。
平成23年10月14日
千葉市遺族会 遺族代表 川上 智子
献花を行う遺族の皆様
千葉市役所吟詠会の皆様 遺族代表 「御礼のことば」
会の終わりは千葉市役所吟詠会の皆様の 「献詠」 を有り難く拝聴させていただきました。
弔 慰 式 (寺岡弥三郎)
庵然夢の如く 幽明を隔つ
定めなき人生 限りなきの情
骨肉親朋 皆席に列し
拈香三拝して 泣いて声を呑む
亡き人を 終いの別れと弔えど
心は消えず ありし面影
金州城外作 (谷口廻瀾)
父は明君に奉じ 子は親に奉ず
我来って憑弔し 涙痕新なり
金州城外 秋深き処
坐に憶う 斜陽馬を立つるの人を
遺族の皆様も高齢化が進み会場の空席が目立ち始め、一抹の寂しさを感じますが、幸いにもお天気に恵まれ、厳粛なる追悼式に参列させて頂きました事に千葉市関係者
多くの皆様に御礼を申上げます。
最後に私事ですが、今年も父方の従姉3名のお方が、千葉市在住とはいえ会場からは遠く、花見川区、若葉区から参列して下さいました。
何時までも父を偲んでいただけますご厚意に有難く、亡き父もさぞ喜んで居りますことと、心から御礼と感謝を申し上げました追悼の日でございました。
川上様母娘を囲む洋上慰霊団 毎年参列して下さる従姉の皆様