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令和6年度(2024年)長崎平和祈念式典

2024年08月09日 17時46分42秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

「長崎市のHPより転載」             長崎 原爆投下から79年 平和祈念式典 “最後の被爆地に”

 長崎市では毎年原爆投下の8月9日に松山町平和公園の平和祈念像前において、原爆犠牲者の霊を慰め、あわせて世界の恒久平和を祈って長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を挙行しています。
 式典は、原爆犠牲者のご遺族をはじめ、市民多数の参加のもとに行われ、この席上での長崎市長の平和宣言は、国連加盟の各国元首をはじめ、全国の地方公共団体などへ送るとともに、
 インターネットを通じ全世界に発信し、核兵器廃絶と世界恒久平和の確立を訴え続けています。


    令和6年度の長崎市の平和公園で行われた平和祈念式典には、被爆者や遺族、岸田総理大臣のほか、あわせて100の国と地域の代表などおよそ2300人が参列しました。
          一方、長崎市は令和6年度の式典でイスラエルの駐日大使を招待しておらず、各国の駐日大使らが参加を見合わせる事態となっています。




   令和6年度の長崎平和祈念式式典の司会は今年も高校生が務められました                    爆心地の慰霊塔



「原爆死没者名簿について
    広島に投下された原子爆弾により死没した方やその後に死没した方(被爆者健康手帳の有無、国籍は問いません。)の霊を慰め、人類の恒久平和を祈念するため、
    死没した方の氏名・死没年月日・死没時年齢を、昭和27年(1952年)から原爆死没者名簿に登載し、広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)に奉納しています。

「名簿登載者数 34万4,306名〔令和6年(2024年)8月6日現在〕

    ・名簿冊数128冊(「氏名不詳者 多数」と記した名簿1冊を含む。)
    
・令和6年8月6日 追加奉納数:5,079名
    ・上記のほか、「長崎原爆死没者名簿(広島奉納希望者)」1冊(登載者数13名)を奉納


 「午前11時2分黙祷」  
     式典ではこの1年間に亡くなった被爆者などあわせて3200人の名前が書き加えられた19万8785人の原爆死没者名簿が「奉安箱」に納められました。合掌
     そして原爆がさく裂した時刻の午前11時2分に「黙とう」をささげ、犠牲者を追悼しました。


                   献  水                                    献  花

鈴木広島市長の「平和宣言」
「長崎平和宣言」が引用の詩 作者は52歳で死去の「闘う被爆詩人」今年、没後50年を迎えた被爆者で詩人の福田須磨子(1922~74年)の詩「原爆を作る人々に」が引用された。
 原爆で肉親を奪われ、病苦と貧困にあえぎながら創作を続けた被爆詩人。その訴えは、核兵器使用をちらつかせて緊張を高める世界の首脳に強く警鐘を鳴らす。
 福田須磨子は長崎市浜口町の青果問屋に生まれ、県立長崎高等女学校を卒業後、尋常小学校の代用教員を経て、長崎師範学校の会計課に勤務していた。
 45年8月9日、23歳の時に爆心地から約1・8キロにあった同校で被爆。自身は助かったが、爆心地から約600メートルの自宅で被爆した両親と姉は、焼け跡から骨となって見つかった。


           長崎市 鈴木 市長 「平和宣言」                       原爆を作る人々よ!しばし手を休め眼をとじ給え


         昭和20年8月9日 あなた方が作った 原爆で・・・              平和な家庭が破壊しつくされたのだ、残されたものは・・・








 被爆者代表「平和への誓い」

       被爆者代表「平和への誓い」三瀬 清一朗さん(89歳)             子供や孫たちが安心して過ごせる青い地球を遺していくために


         被爆国日本こそが核廃絶を世界中の最重要課題として                ”平和は人類共有の世界遺産である!と申し上げて


         亡き御霊へ捧げる平和への誓いの言葉といたします。                最後にと、流ちょうな英語で平和を訴えられました。
「来賓のご挨拶」

国際連合事務総長 アントニオ・グテーレス氏のお言葉を中満泉国連事務次長・軍縮担当上級代表が代読されました。 長崎県知事 大石 賢吾様のご挨拶


                                      「あの子」を歌い継ぐ山里小学校 児童の皆さん


             整列されました山里小学校 児童の皆様                   壁に残った らくがきの おさない文字の あのこの名


       ついに帰らぬ おもかげと 知ってはいても 夕焼けの                 運動会の スピーカ― きこえる部屋に 出してみる
                                    
                                    「あの子」内容紹介

                           長崎市の山里小学校は、原爆で児童1300人が命を落とした。
      奇跡的に生き残った37人の手記は永井隆博士によって『原子雲の下に生きて』として出版され、彼らは「あの子」と呼ばれて平和への願いの象徴とされてきた。
                            彼らをNHKは継続的に取材、2015年にも18人に会えた。
                              被爆体験を周囲に話せずひっそりと生きる人。
                     家族の一言に深く傷ついた人…「戦争よりも戦後がつらかった」と語る被爆者の歳月を描く。

テレビから頂きました写真を並べただけですが「被爆79年めの長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」に原爆の犠牲になられました原爆死没者の御霊に心からの哀悼の誠を捧げたく保存させて頂きました。
言い訳です!これだけの写真を整理しますのにもテレビに向かって100枚余ほどのシャッターを切り、なるべく文字を真っ直ぐに表現したい!を心がけながらの整理ですが素人ですのでうまく参りません。

コメント (2)
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