海底に潜み、敵の船を下から突く無謀な特攻の記憶 - Yahoo!ニュース
「伏龍(ふくりゅう)」とは、
第二次世界大戦末期の大日本帝国海軍による特攻兵器。
「人間機雷」とも呼ばれる。
潜水具を着用した兵士が浅い海底に立って待ち構え、棒付き機雷を敵の上陸用舟艇に接触させ爆破するという特攻戦法のことである[1]。
(以上、ネットより転載させて頂きました)
以下は日テレより「証言 多くの若者が犠牲…特攻兵器「伏龍(ふくりゅう)」いまを戦前にさせない」より一部を紹介させて頂きます。
尚、証言者の個人名他などの転載はいけないと思いますので、HPをご覧頂けましたら幸いに存じます。
この度、残酷な特攻兵器「伏龍(ふくりゅう)」について初めて知ることになりましたことに、戦争の悲劇を改めて学ばせて頂きました。
犠牲になられました多くのお若い兵士の皆様のご冥福とご遺族の皆様に心から哀悼の誠を捧げたく思います。
沼澤 聡教授が「伏龍」は想像できない悲惨さと語ってくださいました。
証言者はかつて訓練を行っていた「対潜学校」を遠くに眺めました。
「当時は訓練の様子が外から見えないように大きな幕が張られていました。」と語りました。
かつて「伏龍」の練習が行われておりました「対潜学校」について(ネットより)
・大正期になって水雷学校では、魚雷部門と機雷部門に分かれて教育が行われてきたが、昭和15年に機雷部門を独立させる方針となり、昭和16年、久里浜に機雷学校を開校した。
・戦局の激化によって、敵潜水艦による被害の増大に伴い、対潜術や水中測的の教育が主務となり、名称も対潜学校に改めた。
・一部埋め立てによる広大な敷地には、庁舎や講堂、道場のほか、大量の学生を収容するため学生舎、予備学生舎そして兵舎、浴場、酒保、烹炊所などが立ち並んでいた。建物はほとんど木造であった。
・大戦終期には、延焼防止のために建物が間引きされるとともに、庁舎裏手の崖に碁盤の目状の大規模な防空壕が構築され、教室機能が移転した段階で終戦になった。
・終戦後、南方からの引揚に浦賀港が指定され、陸軍桟橋から上陸していたが、コレラが発生したことから、対潜学校に検疫所が設けられ、対潜学校の岸壁からも多くの方が上陸した。
しかし、判明しているだけでも800名以上の方が亡くなり、敷地内東海岸に急遽火葬場を設置して、火葬にふされたという。刑務所の裏手には戦後建てられた供養塔が残されている。
・大戦末期には、水中特攻兵器である「伏龍」要員の養成が行われた。訓練は野比に2カ所設けられていた実習所で行われた。危険な兵器であったため、訓練中の死亡事故が多数あったようである。
現在の美しい野比海岸ですが、かつて「伏龍」の訓練が行われた野比海岸です。
海の底で方角を見失い、岸へ戻れなかった隊員は、行方不明のまま、今もここに眠っていますと。
現在まで多くの戦争の悲劇についての記事をご紹介させて頂き多くの皆様にご覧頂いてまいりましたが、下記はその一部です。
千葉県 松戸市PTSDの日本兵家族会「寄り添う会」開催に90人が参加しました 2024年12月23日
NHK 戦禍の中絶 埋もれてきた当事者たちの“声” 2024年08月30日
NHK12月9日放送 ネタドリ! “戦禍の傷” 2022年12月11日
以上のご紹介を書きます時も手が震えましたことを思いだしておりますが、この度の「伏龍」につきましてはあまりにも衝撃的な内容に言葉がありませんでした。
お訪ね頂きました皆様の中にはご存じでしたお方もお出でと存じますが、「いまを、戦前にさせない!」お若い皆様にお願い申し上げましてご紹介と致します。
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