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「兵士たちの戦争 フイリピン・ルソン島」 証言記録(TV放映より)

2022年01月23日 17時59分58秒 | 遺族会(各追悼式・戦争証言などを含む)

1月22日(土)作詞家 湯川れい子さんが「徹子の部屋」で語る、「26歳でルソン島で戦死した兄と洋楽と平和への思い」を紹介させて頂きましたが、その折にお兄様は「26歳でルソン島で戦死」
をお伺いしました。
ルソン島の戦いは壮絶にして多くの兵士が犠牲になりました事を聞いております。

以下に紹介の記事は10年以上も前の過去ログですので証言をされた皆様も鬼籍に入られておいでのことと存じますが、今でも多くの皆様にお訪ね頂いておりますことに驚いておりますと共に感謝
申し上げております。
今年は戦後77年目を迎えますが散華されました多くの英霊に哀悼の誠を捧げ、ここに再度ご紹介させて頂きました。
「太平洋戦争末期」

フィリピン・ルソン島で、米軍の日本本土侵攻を遅らせることを求められた第23師団。米軍を島の奥深くに誘い込み、戦いを長期化させることが使命でした。
しかし既に制空権 ・ 制海権を奪われて補給は途絶え、しかも太平洋の島々で激戦を繰り返したため、蓄えていた物資の多くを使い果たしていました。
こうした中で兵士たちに下されたのが、“自活自戦・永久抗戦” 。食糧も物資も自ら調達し、永久に戦い続けろというものでした。
9ヶ月に及んだ、補給なきルソン島の戦いの実態を辿ります。(放送の解説より)

           TV放映のご紹介 https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210057_00000

 上記のご案内にTV報道に  を向けさせて頂きましたので後世に伝えるために綴らせて頂きました。

 

  
                          戦死者30万人と言われております激戦地 フィリピン ルソン島

  

                             自活 ・ 自戦を強いられた2万人の九州出身者

 
           自活自戦・永久抗戦の文字に震えます                   敵の陣地に向かい ほふく前進 芋虫前進した・・・

 
        ヘビを生で食べる人もいた 引き裂いてそのまま・・・             「何事も命令と言って頭ごなしに言われると・・・」

 
       バギオでふらふらしていたら 遊兵狩りが行われた・・・             シラミの血を自分の体に戻すために 全部食べた・・・
                             
 
                                              洞窟の様なところに病人を直接寝かせた「地獄病院」
       
昭和19年1月からバギオも空襲を受け、野戦病院として使用した場所と言う。
マラリア、テング熱などにかかった兵士を洞窟の様なところに直接寝かせたと言う、ここを「地獄病院」と言われていたそうです。

 
       「助けてくれ」と言っていた。本当にかわいそうだった           私の父はレイテ島東方沖に昭和19年10月27日戦死 残念!

 
                     毎年お一人で ルソン島へ慰霊巡拝に訪れておいでの 小杉 峯彬(みねもり)様
小杉 峯彬(みねもり)様は戦死されたお仲間のために戦後6回(2012年時)、 慰霊巡拝にルソン島を訪ねておいでのお方です。
 「亡くなった方と生きて居るものでは格段の差があり、幾たび手を合わせても自分の気持ちの整理が出来ないと」 と涙ながらに語られました。

以上のご紹介は10年以上も前の放送ですので真実を語られた高齢者の元兵士の皆様は今はもしや鬼籍にはいられてお出でかもとご冥福をお祈り申し上げておりますが、
貴重な証言をありがとうございました。

私も2000年にフィリピンの多くの島々に慰霊巡拝に参りました。
マニラ空港着 ~ セブ島 ~ オルモック ~ サンタフェ ~ カンキボット山 ~ ビリアバー ~ リモン峠 ~ マニラ ~ カリラヤ合同慰霊祭に参列。

誰もが「父は勇敢に戦って戦死した」と伝え聞いておりましただけに当時ご案内役の日本人のお方からの悲惨な状況を見聞きしました折に「来なければ良かった!父があまりにも可愛そう」と、
号泣された男性の姿が忘れられません。

戦争で得るものは皆無です。今年は戦後77年を迎えますが今もこれからも戦争の傷跡は癒えることはありません。悲しみは永遠です。
戦争は二度と繰り返してはなりません。犠牲者は私たちで終わりにしたい!そう願っております。  

最後までお訪ね頂きましてありがとうございます。                                   

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4 コメント

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Unknown (ガーベラ)
2022-01-23 22:35:17
okaさんこんばんは。
戦争を知らない人達が多くなりました私もその一人です。
平和な日本の礎になってくれた若者の無念さを思うと悲惨な戦争を語り継いでいくことが
私達の使命なのだと思っています。
世界中では戦争の火種が燻っています。為政者達の間違った判断で悲しむ人達を作らないで欲しいと
平和憲法の大切さを感じています。
返信する
ガーベラさま (oko)
2022-01-24 00:28:58
いつも温かいお言葉を頂きまして御礼を申し上げます。
この度の記事は、徹子の部屋に出演された湯川れい子さんの
お兄様がルソン島にて戦死と伺い、過去ログを思い出しました。
証言者のお言葉に目を覆いたくなります事と存じますが
戦地では皆同様にご苦労されたことと思っております。
なぜ開戦したのか、今でも先導者出て来い!の気持ちです。
返信する
従兄も (matsubara)
2022-01-24 08:46:10
従兄も名古屋大学の前身の学校から学徒出陣し
サイパンで玉砕しました。まだ幼くて
私は会った記憶はないのですが、こういう話を
載せて頂きますと思い出します。
写真だけがあります。
生きていたら99くらいです。
返信する
matsubaraさま (oko)
2022-01-24 10:31:13
お従兄様のご冥福をお祈り申し上げます。
お若い多くの方の命が失われました戦争がとても憎いです。

父は何歳?と調べましたら今年111歳になります。
返信する

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