令和6年12月靖国神社社頭に掲示されました遺書 合掌
最愛の妻江へと3名のお子様の名前をお書きなられました最後のお手紙、「節子、思ひ残す事は胸一ぱいあるが書けん。では、元気よく勇んで行ってくる。」の最期のお言葉をご覧頂きました
皆様はどのような感想をおもちでお読みくださいましたでしょうか。ただただ残念でございます。合掌
「戦争は間違っていた」と、後からはなんとでも言えます。このような「遺書」を二度と書くことがありませんように恒久平和を祈るレイテ沖海戦に父戦死から80年を迎えた遺児の願いです。
「九段短歌」
いつも多くの皆様にご覧頂いておりますことに御礼を申し上げます。紙面の都合でしょうか?今号は7名のみの掲載でしたが20年前は15首程の作品が紹介されておりました。
われわれが父を偲ぶ気持ちは永遠です。遺児も高齢者になりました。このような歌を詠む遺児・遺族も後、何年かで皆無となりますがお若い皆様に恒久平和を築いていってほしいと願っております。
今号にはペルリュ―島にお父さまの御遺骨を探すために慰霊巡拝に参加されました青森県の田中恭子さまの素晴らしいお歌を拝見させて頂きました。
「わずかなる期待・・・」↑ のお話も後程、お伺いできますことと思います。
「九段短歌」への投稿は父を偲ぶ遺族・遺児の思いに共感して励みを頂きながら投稿しております。
先日あるネットに 一度だけでも呼んでみたかった「お父さん」と南海に眠る父を想ひて と投稿しましたところ
医師と名乗るお方から「あなたいい年をして父乞うの激しさはおかしいぜ。医師の診察を」と感想がよせられ、本当に医師?なのかと疑問に思いました。
悔しくて返す言葉も有りませんでしたが、「あなたのような方に見ていただく患者さんは不幸です。戦死の父を語るのに年齢などありません。」と返しました。
私がおかしいのでしょうか?どなたか感想をお願いいたします。
やっぱり父親ですし、夫ですし、残して死んでいくのはつらいに決まっています。
私のおじいさんも満州で戦死していますが、同郷の友達に残った家族のことをよろしくお願いする、と手紙を出されていました。
(その手紙は、我が家の仏壇にありますが、難しくて読めないのがとても残念です。)
おじいさんの遺影を眺めつつ、心境はどんなものだったのか、考えさせられます。
それと、その医師と名乗る人は、情けなく思います。
こんな大人がいるのか、と。
南方作戦で出征し、未帰還で戦死公報のみという
なんとも実感の湧かない別れ方をしただなんて、
知りもしないんじゃないでしょうかね。
さて、少し違うかも知れませんが、今の時代は
昔でいう所の「お約束」を知らない人が多い。
古典落語の「目黒のさんま」。予備知識無しで
噺を聞くと、恐らくどこが面白いのか理解
出来ないと思います。
調理法、産地、支配階級に対する憂さ晴らし。
これらを知らないと「落ち」も良く分からない。
このお医者先生、そんな気がしたのでした。
「おじいさんの遺影を眺めつつ・・・」↑ 遺族は命ある限り手を合わせますね。
おじい様のご冥福をお祈り申し上げます。
発言は自由ですがこの度の医師?なるものに立腹しました。
表現は自由ですが「いい年をして・・・」の表現は医師として失格に思いました。
我が家は義兄2人が立派な医師でしたので尊敬しておりました。
義兄の一人は肺がんの専門医として千葉県がんセンター開設に尽力して初代センター長を務めました。
現在は甥が東京都内で開業しておりますので医師は尊敬しておりますが、
この度の事に気持ちが揺らぎました。
医者は常識を知らないとも言われておりますがこのうちのお一人に存じます。
人の心が分からない人は診察もできないと思います。
その医師は父親の愛が分からずに今日まで生きてきたのでしょう。
歌の作品が少なくなり寂しいです。
「人の心が分からない人は診察もできないと思います。」↑本当に医師なのかと疑ってしまいました。
「歌の作品が少なくなり・・・」↑10名程は選んで頂きたく思います。今月は残念!でした。