折角の二日続きの好天ではあるが、午前中の所用のため残念ながら
山はお休み。昨日、少し張りきり過ぎたので丁度良い休養かも。
それでも午後になって先日の近所の史跡・伝説巡りの続きに出掛けた。
内山信次氏の「ぶらり高崎」の後追いである。
(1)「追分」の発祥
我が家の近くに「追分」と言われる所があるが、今ではバス停にその名が
残るだけ。小さな八坂神社のある場所である。
昔、未だ渋高線の道が無かった . . . 本文を読む
昨日は雨でコンペが流れてがっくり。今日も分厚い黒雲が山々を覆っている。
仕方なく、例によって伝説の跡を訪ね歩く事にした。
今回は忠臣蔵で不義不忠者の代表になつて、三百年以上も叩かれ続けている
大野九郎兵衛の墓と称するものが上磯部にあると聞いて早速の探訪開始。
18号線を西進して「原市信号」を左折、中橋で碓氷川を渡って214
号線に出て右折。磯部小の少し先の「松岸寺」へ。ここの墓地の入り口に
「滋望 . . . 本文を読む
大野九郎兵衛の墓?のある磯部の松岸寺にはもう一つの史跡がある。
それは「佐々木盛綱夫妻」の墓と称するもので此方は県文化財に指定されて、
小さいながらも舎の中である。盛綱の墓というより県内最古の五輪の搭と
言う事で指定されているようだ。記録によると年号が欠損して読み取れないと
されているが「建保6年」(1218)と判断されており、この年代ならば
盛綱が磯部に居を構えていた時期と合致するとか。
佐 . . . 本文を読む
(上の写真は一里塚の老榎)
「関東北部に雷」との一言で足留めを食らって一週間を過ぎたが今日も駄目。
偶には一汗かきにと猛暑の中を近所の史跡巡り。
(1) 小八木町・鏡宮神社
自宅から高前バイパスを前橋方面へ。「小八木町北・信号」を左折して
「中川小」の向いの神社。ひなびた小さな神社であるが入り口左で予想外
のものを発見。
この付近で発掘されたと言う「祭祀巨石」。6世紀後半のものらしいが、
横2 . . . 本文を読む
ここ数日、朝は全米プロゴルフ、昼間は高校野球・パンパシ水泳にバスケ
世界選手権、夜は巨人戦にバレーボール・ワールドグランプリとすっかり
冷房に浸ってご満悦。
今日こそは山へと思ったら何と朝から大雨、やむを得ずタイガーウッズの
優勝を見届けながら降り止みを待って史跡巡りの続き。
(1)「見返り阿弥陀」の万日堂
先ず、手近の所で君か代橋を渡って直ぐ右下の下豊岡・万日堂へ。
国道拡幅工事で元の場所から1 . . . 本文を読む
今日も天気が思わしくない。と言いながら本音では低山の暑さを避けた
いのだろう。
史跡巡りのケリを付けるべく、地図・メモ・カメラ・ポカリだけ持参、
短パン・サンダル履きのだらしなさで出かける。
(1)九蔵町の命名
これは伝説でなくて史実。今日の目的は寺尾・山名・倉賀野だが、市街地
通過の折、赤信号で止まった隙に九蔵町標識をキャッチ。
1615年の大阪夏の陣の際、徳川方の高崎城主・酒井家次は四人の町 . . . 本文を読む
午前中、所用の帰りに市立図書館に寄り内山信次著「徐徐漂(ぶらり)高崎」
をめくっていたら先日の探訪に多くの見落としがあるのに気付き、午後に
なってから補足に出かける。この内山氏、爺イの中学・高校の八年先輩、
石仏研究の大塚省吾氏・美峰の小山禧一氏が同期。
(1)赤坂町・長松寺
爺イの母校は1897年、この寺を仮校舎として「群馬県尋常中学群馬分校」
として発足。同窓会名簿の最初のページは1902年 . . . 本文を読む
史跡巡りや伝説の地の探訪をしていると時たま「行人塚」という言葉に
ぶつかる。これも今までの爺イの興味の範疇からは外れているもの。
早速、お勉強が必要。
倉渕の古い記録に村内7箇所にあると聞いてそんなに在るのか?
と再認識。物の本によると「入定塚」とも言われる行人塚とは、高徳の僧
などが生きたまま墓穴に入って往生を遂げた塚の事。「入定」とは座禅を
組み、身心を統一して静慮の境に入る事らしく、元々は禅 . . . 本文を読む
昼近くなってから突然陽が射して来た。オィオィこんな予報は聞いてないよ、
と口ではブツブツ言いながら手の方はさっさと山行きの着替えに掛っている。
予定はすっかり癖になった伝説の確めだ。
切っ掛けは某氏のHPで「箕輪城陥落は永禄9年と云うのは間違いで永禄6年
が正しい」と断言しているのを読んだから。爺イの常識は永禄9年、理由は
司馬遼太郎がその様に書いているからと、いとも単純明快。事実、多くの
表示が . . . 本文を読む
群馬の石仏の話になると、「高遠の石工」と言う表現を目にする。江戸時代に
信州・高遠藩が苦しい藩の財政を補うために農家の次男・三男に石切や石像
彫刻の技量を拾得させ「旅稼ぎの石工」として各地に派遣して稼ぎの一部を
冥加金として上納させた史実がある。この出稼ぎ石工たちが西毛地区で多く
の優れた作品を残し、地元の石工達もそれに倣ったので群馬は石仏の宝庫に
なったと言う事らしい。
個々の石像に彼らのサイン . . . 本文を読む
昨日は中之条・市城の「宗福寺」にお邪魔して5月末以来の紛失カメラ
探しに終止符を打つことを伝え、ご協力に感謝しつつ掲示物の撤去を
してきた。後日、CDに落とす積りだった62Mに及ぶ貴重な写真は
戻ってこないが致し方ないと諦め。但し相当数は変形してプログに
アップロードしてあるので時間を掛ければCDに再現は可能。
その中之条への往復途中の榛名東麓で凄まじい局地的豪雨に遭遇して
難渋したので、今日の予 . . . 本文を読む
先日、「相満伝説」を訪ね歩いた後、調べてみると未だ細かい伝説が
残っている事に気付いた。大体、千葉(平)常将は確かに実在の人物
だし長和年間(1012-1016)に船尾山堂宇が焼き討ちにあった
のも史実であり、ここから無数の伝説がばら撒かれたのであろう。
889年の「将門の乱」で見られるように高望王から発した桓武平氏
の子供達は関東に広くばら撒かれた。後に頼朝の元に馳せ参じてご家人
となった畠山・ . . . 本文を読む
高崎に「和田の三石」という伝説がある。現物があるのでお話だけの
ものではない。ところが資料によってその記述が違うので困ったものだ。
この三石とは「和田の立石」・「上和田の円石」・「下和田の方石」
の事。その記述記録とは「高崎の名所と旧跡・田島武夫」と「上州の史話
と伝説・根岸省三」における相違である。「和田の立石」が高崎神社に
あると言う事は一致しているが、「高崎の名所と旧跡」では「方石は
下横町 . . . 本文を読む
高崎の郷土文化を高めた偉人と言えば「村上鬼城」と「内村鑑三」の
二人と言うのが定説である。高崎図書館の郷土史コーナーに行ってみると
内村鑑三関連の図書で埋まっている。しかし、現実にはこの内村鑑三と
高崎を直結的に関連付ける人がこの高崎にはどのくらい居るだろうか?
鑑三本人が江戸・小石川の高崎藩邸で生まれている事で分かるように
代々城主・大河内氏に仕えた家柄であり、東京外語から札幌農学校に
入学後に . . . 本文を読む