クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

安中茶臼山東ルート探索 H-24-6-30

2012-07-01 10:24:51 | 安中・松井田
数日前、重鎮さんのHPを見ていたら2011年にすかいさんが安中・茶臼山に標識を
取り付けている写真が載っていた。丁度、茶臼山西北の倉淵・安中境界尾根にある
三角点に行こうとしていたので、その標識をコレクションに加えようと思った。
爺イもかってこの茶臼山に二回ほど行った事があるので念の為に其の古い記録を
見直していたら面白い事に気付いた。引用させてもらった山崎一氏の城址縄張り図に
東から破線が引いてあつたのだ。この山へは南からしか行って無いので
一山複数登山路のモットーに従ってこのコースを探索することにする。
其の図は下巻P-382 付図461である。



この境界尾根には地形図上は平行して林道が走っているが地蔵峠からの未舗装部分は
通行止めで入れないので安中榛名駅裏のR-122からの分岐を狙う。

新幹線駅から安中・石尊山への道を進みこのR-122(八本松松井田線)道標に従って左折、
直進は風戸峠だが。



約100M程下ると右手に林道が分岐、表示は「林道・森熊線終点」。



車内から前方を眺めると幅4Mの筈の林道は両側から篠竹や雑草がはみだしていて車の
ボディーを相当擦りそうなので低速で進行。目標の三角点までの直線距離は4K。



1K過ぎた頃、左から関東ふれ合いの道が合流してくる。これは群馬NO.13「山菜のみち」で
西上秋間・恵宝沢から日陰本庄・落合道祖神までの7.4K一般コース。





ここに一寸駐車して80M戻ってこの道標から0.6Kの戸谷山へ寄っていく事に。
新規設置の頂上標識をコレクションに加えるため。



この辺だけに咲いていた花。



登りだして直ぐのところに東屋、コース案内の「風戸峠東屋」とはこの事だろう。



二回ほど右折を繰り返すと中間点であとは直進の0.3キロ。山というより林道脇の
土手の上の山頂に到着。これが新規の標識だか設置者は不明。



期待したすかいさんの物は無く、従来からあるのは二枚。





叢の中に三角点。三等で點名は「幕岩」605.22m。近くに「四等・幕岩山」が
あるので紛らわしい。



山頂の殆どはアンテナ設備の金網で占拠されている。表示は
「群馬テレビ倉淵中継所」。




少し下がった東側にアンテナがもう一基、此方は「防災行政無線安中中継所」。
付近は茫々たる叢でここにある筈の宮標石は見つからなかった。




さて、余分な寄り道から下山して車上に戻って林道を西進。両側の雑草が
行く手を阻みフロントガラスまで激しく叩かれ思わず車中で首をすくめる体たらく。
藪を抜けると漸く分岐、直進・左折とも「森熊林道支線」。





直進の支線を眺めると本線より雑草のはみだしが少ないようなのでそのまま前進。



やや登りの蛇行が続いて再び分岐。支線はここから左折、直進の地蔵峠へは未舗装で
鎖で閉鎖されている。



この角に駐車、目標はこの臼沢山だ。



付近の叢を丹念に調べて踏み跡らしき線を発見して入り込む。最近はライン読みに
慣れた。



僅かの距離で山上のポールが見えて簡単に到着。



赤のペイントで頭を塗られたコンクリート柱が二基並んでいる。赤塗りの三角点とは
初めての対面。



こちら三角点。四等で點名は臼沢山 655.81m。安中には「臼沢」「臼ノ小屋」
があるので幕岩同様に間違え易い。



拾い物の宮標石。叢でブヨが寄って来るのでさっさと下山。眼鏡を掻い潜って黒眼を
狙って来るのが不思議。



再び、車移動で左折の南進でR-125との合流点へ厳しい蛇行の下り道。で、林道終点。



丁字路を右折すれば長者久保で八幡峰に行けるが注意看板があり荒れているらしい。



この道はさっきの林道支線より路面が悪く幅も狭いがれっきとした県道。
「一本木平小井戸安中線」と長ったらしい名が付いている。



かなりの距離をガタガタと下って漸く本目的の茶臼山の標識前。丁字路角の狭い
スペースに車を突っ込んでスタート(10.48)。



山手に向かって直ぐにこの橋を渡る。



左手の土手に何やら石造物。宗教的な物かと思ったら「茶臼林道開鑿碑」だつた。



その直ぐ先に小沢が崩れたような箇所があり帰路はここに出てきた。



記憶にある登山道入り口は少し先の竹林にその標識がある筈だが今日は目的が
違うので其れを確認することなく北へ直進。



大分進んだと思われたとき、作業道は突然下り始める。これから先に行ったら違う
山塊になるので少し引き返して山手を探る。
と、斜面の枯葉の下に埋もれた道標を発見。確かに東コースは存在したのだ。



作業道跡程度の草茫々の道に入った途端に猪捕獲用罠が大口を開けていた。どうやら
現役らしいが中を観察すると餌の類は置いてはいなく、檻の中の踏み板に触ると
蓋が閉まるようになっている模様。



道は段々荒れてきて、倒木も邪魔。余り歩かれている様子は感じない。



藪を抜けて林に差し掛かると右下は切れ落ちていてその縁を歩く事になる。



斜面に沿ってぐーつと左旋回したら沢の源頭に出てしまった。直進、右回りは
進行不能。
目指す山は左手(西)なので左斜面を丹念に観察。
漸く細くて薄い踏み跡が切り返して登っているを発見して這い登る。と、
目の前に赤テープ。ルートに間違いないと確信。



さて、ここから高みに直登も考えたが傾斜が凄いので左前方に見える稜線を目指すと



再び赤テープ、ルートに間違いは無い。



斜面を斜めに登りながら踏み跡を辿ると今度はキラキラの目印、これは頂上まで
絶えることなく付けられていて大いに助かったーーと言うより此れが無かったら
登頂は多分不能だったろう。



今度は木の杭、何かが掲示されていた痕がある。撤退に備えて赤鉢巻をして目印とした。



方向を左前方に決めて一気に稜線に到達すると何と目の前に道標。
右上に誘導しているのか、左から登ってきての途中目印か?



一直線ではあるが傾斜の厳しい尾根道を進むと、目の前に巨大岩。いや、良く
脇を見ると単純な岩ではなくずっと上まで続く巨大な岩帯だ。



左右どちらにも踏み跡がある気配だが何となく左を選んだらさっきのキラキラリボン。



安心して進んだらいきなり左が鋭く落ち込んだ際どい道でロープ付き。
下地が極端なくらい軟らかくズルズルと落ちるので体をロープより山手
にいれて慎重。



傾斜地を冷や汗出して通過したら今度は圧迫感のある岩の下を中腰で。



やっとロープは終わったがこんな断崖の上に登る羽目になつて上に着いてから思わず
座り込む。



岩帯の上に着くと又目印がヒラヒラと出迎える。この後は東から西に向かって
等高線の混み合った小尾根の一本登りが待っていた。



右上方に小尾根が合流しそうなのが遠望できたが、幾ら登っても近づかない感じで
息継ぎ休止が頻繁。



漸く、正面に城址の腰曲輪らしきものが見えで元気が出る。



曲輪に立つともう本丸が一段上に見える。



そして、本丸到着(12.22)。標識の裏が見えるので完全に東ルートの成功だ。



標識はすかいさんの物を含めて低山にしては異例の多さ。









登山口で見たと同じの木の杭があつた。



落下している標識の中から丁度切り込みサイズに合う物を探したらこれだった。



城址由来説明の看板も地に落ちていた。



別途、爺イのメモから記すと
碓氷郡誌には
「この城の創建は建久四年、頼朝が浅間三原野に狩を催した時、砦を此処に築いて
飽間太郎勝正を封じたのが始まり。爾後、累世の居城としたが後胤の飽間三郎勝成が
観応二年、新田義宗に従って笛吹(うすい)峠で足利軍と戦って討ち死。
其の末裔飽間三郎勝俊の代となった時、内出城に転住したために、
その後空き城となった処より、漸次廃絶するに至った」とあるが城塞研究の
第一人者である山崎一氏はその著書・群馬県古城塁史の研究下巻」のP-183で
「築城形式からして鎌倉初期のものではなく南北朝時代のものと判断している。

少々、歴史好きの爺イの蛇足を加えると「建久四年とは1193年、前年に
征夷大将軍になり鎌倉幕府を立てた頼朝にとって絶頂期。この年は有名な
富士の裾野の大巻狩りが催され後年、作者不明ながら曽我兄弟の仇討ちを
テーマにした「曽我物語」を生み全国にその関連伝承が伝播した。
赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つとされるが。
三原野の巻狩りはこの「物語」の中のことで実際にあったかどうかの確証は無い。
新田義宗(1331-1368)とは悲劇の名将・新田義貞の三男、父親が1338年に
敗死してから越後の新田一族に匿われて嫡子として成長。成人すると兄義興、
従弟の脇屋義治(義貞弟の脇屋儀助の子)らと越後、関東で宮方を指揮し南朝を
守るため執拗に北朝側の足利に抵抗した武将。
勝成が戦死した笛吹峠の戦いとは現在の旧軽井沢の辺で1352年の事。
この頃は勿論南北朝の真っ最中で天皇二人、年号二つという内乱激化の時。
内出城とは吾妻の「川戸・内出城」と区別して「上野・内出城」と云われる城址で
安中榛名駅と秋間小の中間にある。

尚、飽間は「あくま・あきま」と読む。秋間にある東上秋間の鎮守「飽馬神社」に
拠ると日本武尊の東征の時、この伊勢森に憩い御馬に飽かせ給いて、伊勢の
大神を祀り「飽馬ノ神社」と称し鎮座し「秋間」の地名の起こりとされている。
内出の飽間氏は1403年に丸亀に転出とされるが確証も無いので戦国時代の
安中武士団の中に居た「秋間七騎」と呼ばれる武士団が其の末裔ならロマンありだ。

軽食と休憩。本日の中日戦はデイゲームなのでのんびりもしていられずに下山開始(12.44)。


帰路は馴れた南コース、一段下ると直ぐに赤テープで何となく踏み跡に誘導される。



やや蛇行しながら斜めに斜面を下るがここでもキラキラ目印があり大助かり。



真ん中の太目の樹幹の赤テープで安心して進む。



大岩二つ、往路の岩帯に比べればお愛想程度。



ポツンと石宮が一つ、登路に現れるが銘は読めない。



ルンルンで下ったら意外な小尾根の分岐、軽く考えて左を選択したらかなり下で
断崖でブチ切れ。仕方なく登り返しで分岐を目指す。



分岐手前で隣の小尾根にショートカットしたら此方にリボン。



今度は間違いない尾根の一本下り、やがてこんな家庭用と思われる老朽した
アンテナを過ぎると先方下に車道が見えて一安心。



と、とんと林道に飛び出し左に回る。



やや、藪っぽい所を通過してこの堀を越える。



目の前に見えたのは多分、かつて存在した島崎水産の建屋らしいので更に左へ。



最後は大人しい林から林道に降り立つ。往路での橋のすぐ先だった(13.28)。



体温が予想以上に上がっている感じなので路傍の名水で顔を冷やして一休み。



再び車に乗って帰路につくが折角だから恵宝沢から飽馬神社に寄った。
既述の如く日本武尊の東征の時、この伊勢森に憩い御馬に飽かせ給いて、
伊勢の大神を祀り「飽馬ノ神社」と称し鎮座し「秋間」の地名の起こりとされている。
飽間と飽馬の違いがあるがさっきの茶臼山城址所縁のものかと思ったが拍子抜け。



神社の全景、奥に社殿と神楽殿。



掲額は飽馬神社。



境内には見るべきものも無く、夏草茫々で手入れはされていない。社殿の横に
双神道祖神と石宮が五基だけ。





殊勝にもお参りの爺イ、願い事は中日戦の三連勝だから神様も戸惑っているかな?



急いで帰宅したら未だ二回の表ながら4-0でリード、「点を入れるなら俺が見てる時にしろ」と
テレビに贅沢を言つて連勝を確信。

7/1
祝! 対中日 三連勝




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