朝日岳北峰は「天引城址」とされるが、国峰城のような巨大な城ではなく戦歴も明らかでない砦程度であるので「上野国郡村史」に「――天引城墟、村人能ク遺事ヲ説くモノナシーー」と書かれてしまう程度である。かってこの地は武田・上杉・北條の三つ巴戦の台風の目の存在であったのにである。
「甘楽町史」には下の写真とともに城址の説明が記載されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/9f/e9f2b39f89f9bfa789d820f147124753.jpg)
上の図で東からの稜線は「やじま」から登ってくる東コース、南に伸びているのは「朝日岳・南峰」へ、今まで見落としていたのが西北への稜線で神戸・甘楽間の林道の何れかに出られる筈。機会があったら何処に出るのか確める積り。暇つぶしに色々調べたので下記。
*「甘楽町史」の記述から引用
天引城址は「一郷山・八束」両城と一線に並んだ単峰式山城、山頂の径12―13㍍の小郭。二の丸は腰曲輪状に8㍍下、その下に東と南に小さい腰曲輪が付き其処から下に掘り切り。西北尾根に掘り切りと4段の腰曲輪、その先3段の虎口受。
甘尾古城、関東管領上杉憲政の旗下・甘尾若狭守居城。
このような記載があるが、実質的には山内上杉の大黒柱で宿老は長野業政であり、その女婿の国峰城主・小幡信貞の支配下にあった筈。
業政は名君とされるが、ここに出てくる上杉憲政、暗愚として有名人で1551年に氏康に平井城をとられて長尾景虎を頼って逃亡、10年後に上杉を譲って、上杉謙信を誕生させた上、上杉家の内紛の折に誤って殺害され、上杉ニ百年の直系の歴史に終止符を打った男である。山内上杉滅亡後も跡を継いだ上杉輝虎の庇護の元に長野業政の支配は変わらなかったが信貞と仲の悪かった同じく業政女婿の弟・図書介景純の諫言により温泉療養中に国峰城を乗っ取られ武田に身を寄せ、後の武田の侵攻で奪還する。この時、景純が追い詰められて自刃したのが「宝積寺」であり、奮戦した荒法師の自決した場所が本堂裏にある「天狗の腹切り岩」。
信玄は頼って来た信貞を南牧村の「砥沢砦」に入れて上州の諸将の調略を命じ、「高山・
多比良氏」や「天引・甘尾氏」の武田への内応を約させた。
小幡信貞はその後もこの地に武田軍で活躍し甘楽一帯と和田城までも調落し信玄の西上州攻略に貢献して武田24将の一人にもなっている。しかし武田滅亡後は織田信忠に仕え、本能寺の変の後は北條氏直の先鋒となっている。1590年の秀吉の小田原攻めの時、信貞は北條側で小田原詰め、国峰は弟の信秀が守るが、北陸軍・利家、景勝に攻められる。信貞は家康の牒略に乗って国峰は落城、信貞は旧友・眞田昌幸を頼って松代で過ごし、子孫も松代在住。(小幡氏の系譜より)「お菊伝説」の当事者であり、小田原在勤の留守中の事件。
*「上野志」より引用
東部の白倉氏、甘尾氏も小幡一族、天引城は国峰城の外防線としての61個の砦の一つ。
*「新屋村その史話と名物」より引用
「8世紀、羊太夫なる者、八束村に居住せしが望楼として天引村に城山を築き、物見の先守とし、その勢い盛んになりけるに讒言により官軍に攻めこまれ、城山を捨てて敗走、八束の城にて防戦す」―――羊太夫伝説がここまで関係するとは意外。
*「甘楽郡史」より引用
天引城は大字天引村の東部にあり、羊太夫が砦を構えし所と言う。されど千余年の星霜を経たれば、今や破れ砕かれたる。少しばかりの礎、巌に残る胸壁の跡らしきもの、空しく
往昔の面影を留めるのみ、国破れて山河あり、城春にして草木深し。
*「上野国志」より引用
箕輪城記に天引城ありきと云、並びに信玄の為に屠られる。
どうやらこの城址は武田の滅亡、小幡氏の拠点・国峰城の滅亡、奥平氏の進駐と共に忘れ去られ、その後も役割に出会わぬまま、今やひっそりと三角点だけの無名峰に甘んじているらしい。
機会があったら地元の郷土史研究家の話を聞いてみたい。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
「甘楽町史」には下の写真とともに城址の説明が記載されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/9f/e9f2b39f89f9bfa789d820f147124753.jpg)
上の図で東からの稜線は「やじま」から登ってくる東コース、南に伸びているのは「朝日岳・南峰」へ、今まで見落としていたのが西北への稜線で神戸・甘楽間の林道の何れかに出られる筈。機会があったら何処に出るのか確める積り。暇つぶしに色々調べたので下記。
*「甘楽町史」の記述から引用
天引城址は「一郷山・八束」両城と一線に並んだ単峰式山城、山頂の径12―13㍍の小郭。二の丸は腰曲輪状に8㍍下、その下に東と南に小さい腰曲輪が付き其処から下に掘り切り。西北尾根に掘り切りと4段の腰曲輪、その先3段の虎口受。
甘尾古城、関東管領上杉憲政の旗下・甘尾若狭守居城。
このような記載があるが、実質的には山内上杉の大黒柱で宿老は長野業政であり、その女婿の国峰城主・小幡信貞の支配下にあった筈。
業政は名君とされるが、ここに出てくる上杉憲政、暗愚として有名人で1551年に氏康に平井城をとられて長尾景虎を頼って逃亡、10年後に上杉を譲って、上杉謙信を誕生させた上、上杉家の内紛の折に誤って殺害され、上杉ニ百年の直系の歴史に終止符を打った男である。山内上杉滅亡後も跡を継いだ上杉輝虎の庇護の元に長野業政の支配は変わらなかったが信貞と仲の悪かった同じく業政女婿の弟・図書介景純の諫言により温泉療養中に国峰城を乗っ取られ武田に身を寄せ、後の武田の侵攻で奪還する。この時、景純が追い詰められて自刃したのが「宝積寺」であり、奮戦した荒法師の自決した場所が本堂裏にある「天狗の腹切り岩」。
信玄は頼って来た信貞を南牧村の「砥沢砦」に入れて上州の諸将の調略を命じ、「高山・
多比良氏」や「天引・甘尾氏」の武田への内応を約させた。
小幡信貞はその後もこの地に武田軍で活躍し甘楽一帯と和田城までも調落し信玄の西上州攻略に貢献して武田24将の一人にもなっている。しかし武田滅亡後は織田信忠に仕え、本能寺の変の後は北條氏直の先鋒となっている。1590年の秀吉の小田原攻めの時、信貞は北條側で小田原詰め、国峰は弟の信秀が守るが、北陸軍・利家、景勝に攻められる。信貞は家康の牒略に乗って国峰は落城、信貞は旧友・眞田昌幸を頼って松代で過ごし、子孫も松代在住。(小幡氏の系譜より)「お菊伝説」の当事者であり、小田原在勤の留守中の事件。
*「上野志」より引用
東部の白倉氏、甘尾氏も小幡一族、天引城は国峰城の外防線としての61個の砦の一つ。
*「新屋村その史話と名物」より引用
「8世紀、羊太夫なる者、八束村に居住せしが望楼として天引村に城山を築き、物見の先守とし、その勢い盛んになりけるに讒言により官軍に攻めこまれ、城山を捨てて敗走、八束の城にて防戦す」―――羊太夫伝説がここまで関係するとは意外。
*「甘楽郡史」より引用
天引城は大字天引村の東部にあり、羊太夫が砦を構えし所と言う。されど千余年の星霜を経たれば、今や破れ砕かれたる。少しばかりの礎、巌に残る胸壁の跡らしきもの、空しく
往昔の面影を留めるのみ、国破れて山河あり、城春にして草木深し。
*「上野国志」より引用
箕輪城記に天引城ありきと云、並びに信玄の為に屠られる。
どうやらこの城址は武田の滅亡、小幡氏の拠点・国峰城の滅亡、奥平氏の進駐と共に忘れ去られ、その後も役割に出会わぬまま、今やひっそりと三角点だけの無名峰に甘んじているらしい。
機会があったら地元の郷土史研究家の話を聞いてみたい。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
![](http://image.with2.net/img/banner/banner_21.gif)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます