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■水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 お化けたちはこうして生まれた (2024年6月29日~8月25日、札幌)

2024年08月25日 15時27分09秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
 「ゲゲゲの鬼太郎」などではなく作者の妖怪画に焦点を当てた絵画展。
 水木しげるの妖怪画はとにかく背景の描きこみが細かいこともあり、タブローとしても十分な強度を持っており、見ごたえがありました。プロダクションの制作であり、すべてのペンを水木本人が入れているわけではないのでしょうが。 

 前半部で、水木の生い立ちや戦争体験をパネルで簡潔に解説するとともに、神田の古書店街で入手した鳥山石燕の画集や『民俗学辞典』などを展示した後で、後半はカラーやモノクロの妖怪画110点余りを並べているのも、妖怪世界への理解を助ける意味で、よくできた構成です。
 しかも、後半の図版のうちおよそ3分の2については、タイトル以外は説明キャプションがなく、どんな妖怪なのかは、こちらで想像するしかありません。
 中には、コロナ禍で突然メジャーになってしまった「アマビエ」もいれば、「枕返し」や「化け草履」のように絵と名からおおよその想像がつくもの、「タンコロリン」「ブナガヤ火」など、なんだかよくわからないけれど、恐ろしいものもいます。
(水木しげるはコロナ禍よりも前の2015年に亡くなっており、生前にアマビエを描いていたのか、さすが! という驚きがあります)


 先ほど「想像するしかありません」と書きました。
 ここにある妖怪のかなりの部分は、水木しげるの豊かな想像力の産物だからです。
 しかし実は、彼が石燕や国芳といった浮世絵などを踏まえて描いたものが意外と多くを占めています。
 これは「元ネタを引き写しただけじゃん」ということではけっしてありません。それは、小松和彦氏が指摘しておられる通りです。日本の伝統を踏襲した上で、驚く人とか周囲の家や森といった水木独自の要素を加えたのが、今回並んでいる妖怪画なのです。
 水木しげるも、想像だけなら妖怪ではなく怪獣になってしまうと言っています。

 筆者が一番考えさせられたのは「妖怪」と「怪異現象」の違いでした。
 日本民俗学の開祖柳田国男は「妖怪名彙」(『妖怪談義』所収)に数多くの妖怪をリストアップして、後の妖怪研究のスタート台としていますが、そのリストに冒頭から並ぶ
「シズカモチ」「タタミタタキ」「アズキトギ」「ソロバンボウズ」
などはいずれも、音だけの怪異現象であり、姿かたちを見たという人はいないのです。
 だから、夜中に変な音がしたところで、それが本当にお餅の粉をはたく音や小豆をといでいる音なのかどうかもわかりません。なぜ全国各地で小豆の音と思われているのか、そのほうが不思議だったりします(大豆や石ころでもいいはずなのに)。

 フランスの作家モーパッサンの言葉だったと思いますが、正体がはっきりしないからこそ人は恐怖心を抱くのです。
 ところが水木は「アズキトギ」(彼は「小豆洗い」としている)や「算盤坊主」を、過去の妖怪画プラス自分の想像力で、絵にしています。
 正体不明のままにしておいた方が怖いんじゃないかとも思うのですが、これは絵を描く人の宿命というか本能としか言いようがありません。
 だから、私たちに必要なのは、正体不明の妖怪を正体不明のままに怖がるという姿勢ではないでしょうか。
 ここに並んでいるのは、水木しげるの見方であり、それはそれで堪能すればいいのですが、妖怪をカタログ化してわかりやすく楽しむというのは、どうも違うような気がするのです。名付けえないものや、姿も明瞭ではないもの、それらをそのままに受け止め、それぞれが想像をたくましくする…。それこそが、妖怪との付き合い方の極意なのではないかと思ったのでした。

 たぶん、ぬりかべも一反木綿も、出会った人によって、その姿は違うんじゃないかと思うのです。
 

 なお「タンコロリン」は、仙台の言い伝えで、柿の実をもがないで放置しておくと入道に化けてしまうというもの。「ブナガヤ火」は沖縄の水辺にいる妖怪で、青い火を発し、誤って子どもが水中でその手や足を踏むと怖い仕返しをされるといわれています。(水木しげる『決定版 日本妖怪大全』講談社文庫による)


2024年6月29日(土) ~8月25日(日)、会期中無休
札幌芸術の森美術館(札幌市南区芸術の森2)



・地下鉄南北線真駒内駅バスターミナル2番乗り場から出る路線バス(どの系統でも可)に乗り、「芸術の森入口」で降車


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