まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

コスモスは 咲いてその日を 良しとする

2016年09月24日 | お役目ごくろうさまであらっしゃいます。

 さぬき市地方は気圧の谷の影響で概ね曇っていたが、昼過ぎからは大気の状態が安定したためか晴れてきていた。気温は20.9度から26.1度、湿度は88%から76%、風は1mから3mの東の風がすこしばかり。明日の25日は、引き続き湿った空気の影響で概ね曇り、昼過ぎからは大気の状態が不安定となるため、雨や雷雨となるらしい。

 

 さて、今日は、さぬき市観光協会の「おへんろつかさ養成講座」第三回志度寺研修の日である。ご案内の通り、おへんろつかさの会というのは、四国遍路の知識を伝え、さぬき市を観光的歴史的側面から全国に発信する活動をしている市民団体で、主には、上がり三ケ寺(志度寺・長尾寺・大窪寺)の案内や春と秋に遍路道を歩くまち歩きイベントなどを開催している。

 

 志度寺さんの駐車場は広くないので、受講生はさぬき市役所の駐車場に車を停め、ここに集合して、志度寺まで役員さんがピストン輸送する。

 

 講義は志度寺さんの書院をお借りしてのお勉強になる。

 

 9時からの一コマ目は十河瑞澄副住職より「志度寺現地研修」ということで、志度寺の縁起やいわれ、伝承などや境内内の建物の説明や各種仏像の来歴などについての講義があった。

 

 推古天皇の 頃に創建され、天武天皇の時代に藤原不比等が堂宇を拡張し、持統天皇7年(692)に、行基菩薩が大伽藍を修築したと伝えられているが、現在の堂宇は、寛 文10年(1670)高松藩祖松平頼重公が建立したものである。四国霊場86番の名刹である。本尊は十一面観世音菩薩で、脇士不動明王・毘沙門天と、絹本 著色十一面観音像、絹本著色志度寺縁起図絵六幅、志度寺縁起等付属文書九巻は何れも国指定の重要文化財である。寿永4年(1185)2月、屋島の戦いに敗れた平家一族が、この志度寺周辺で繰広げた源氏との激闘にも敗れ、西国に落ち延びて行った哀しい遠いものがたりもある

 

 天武の昔、 淡海公藤原不比等は、唐の皇祖妃から送られた面向不背の珠が、志度沖で竜神に奪われたため、身分を隠して都から志度の浦を訪れ、純情可憐の海女と恋仲にな り一子房前が生まれた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海に潜り竜神と戦い珠を取り返したが、竜神の為に傷付き真珠島で命を果てた。房前はのちに藤原家を継ぎ、大臣となった。ある日父より母である海女のことを聞かされ、行基を連れて志度を訪れ、志度寺の西北一丁あまりの所に千基の石塔を建立し、法華八講を修して亡き母の菩提を弔った。中央の大きな五輪塔が海女の墓と言われ、左右の円柱形の二基の石塔は内部を空洞にして経典を収める経塔である。

 

  毎年海女の命日である6月16日には大法会が行なわれ、16度市が立ち、千三百余年の昔をしのぶ供養が今もなお続けられている。また、謡曲「海士(アマ)」、浄瑠璃「大織冠」、歌舞伎「面光不背の玉」などで今に伝えられている。

 

 こうした地図で境内の案内もされたのが新鮮であった。

 

 二コマ目は、渡邊会長による「志度寺縁起絵図の鑑賞」という講義だった。志度寺には、こうした縁起絵図が七掛ある。今回はその内の「御衣木(みそぎ)縁起図」と「讃州志度寺道場縁起図」の鑑賞だった。

 

 本寺の縁起によると、志度浦にたどり着いた霊木を凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)が草庵へ持ち帰り安置し、その霊木から本尊(十一面観音)を造立し、堂宇が建立されたという。創建は推古天皇の33年(626)のこととされている。天武天皇10年(681)には藤原不比等が堂宇を増築し、「志度道場」として名づけたという。不比等に関わる「海女の玉取り」伝説は謡曲などでも知られる。また、持統天皇7年(693)には不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立したと伝えている。

 

室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行って繁栄するが、そののち戦乱により寺院は荒廃する。藤原氏末裔の生駒親正による支援などを経てのち、寛文10年(1671)、高松藩主松平頼重の寄進(本堂・仁王門)など、高松藩主松平氏により再興されている。

 

 三コマ目は、片桐孝弘氏による「さぬき市内の石造物について」という講義であった。

 

 先生は何年も掛けて遍路道沿いの石造物を丹念に調べて歩いて記録されている。

 

 なかなかに、こういうものをガイドする機会はないけれど、石造物を鑑賞する眼というもの、石造物を見て、これは何か・・ということを理解する上では貴重な講義であった。

 

 今日の掲示板はこれ。「念仏は悩みをなくすのではなく 堂々と悩んでいける道である」という曽我量深先生の言葉からである。妙好人といわれた庄松さんはまさしく安心して悩むことができる道を見出された。「(悩みを)持ったまま」「邪険という角を持ったまま」、安心して堂々と悩 んでいける道しか、私たちがすくわれる道がないと仰せになったのは法然上人さん。そこには、いのちを我が物にして苦しんでいたことから解放された法然さん の喜びがある。思いどおりにならない状況のなかに、実は光輝く世界があるもの。法然さんは、「真宗の教えは立派な人になっていく教えではない。人間は愚か であるがゆえに、はかりしれないいのちからの呼びかけを常に聞いていかなくてはならないのだ」と言われている。この呼びかけを忘れて、自分の思いにとらわ れてしまうのが凡夫とよばれる私たちのあり方なのであろう。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。



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