オリンピックの熱気が去ったと思っていたらパラリンピックが始まって再び国立競技場や水泳などの競技会場が映し出されてきた。それぞれに障がいをもつアスリートがこれから繰り広げる熱戦に期待したいと思う。観戦を除いて自分のオリンピックとの直接のかかわりと言えば1972年の札幌冬季オリンピック。時間に余裕のあった学生時代だったので、友人に誘われてボランティアとして(しかし、少し日当のようなものももらったからアルバイト、と言った方が正しいのかもしれない)主に報道関係者のために日本語―英語の通訳をしたこと。思えば当時のオリンピックにはアマチュア主義があって、おカネのからむ職業的なプロの選手は厳に排除されていた。だが当時のソ連やそのほかの共産主義国は国が丸抱えで選手の強化をしていたから、この原則は実際には二重基準になっていた。したがって、こういった極端なアマチュア主義?はその時のIOC 会長だったアメリカ人の大金持ちアベリー・ブランデージのいわば個人的な老いの一徹、といえるものだった。
その一例としてこのオリンピックでも、オーストリアのアルペン選手、カール・シュランツがプロだとみなされてブランデージの鶴の一声!で参加資格をはく奪され、大会直前になって選手村から追放された事件はいまでも記憶に残っている。
と同時に記憶に残っているもののひとつがコカ・コーラ。通訳として派遣されていた選手村や競技会場にはコカ・コーラが無料でいくらでも飲むことができた。スポンサーとして大盤振る舞いしたのだろう。通訳の仕事と言ってもそう忙しいものではなく、必要に応じて指定された場所に行けばいいわけでそれまでは控室のようなところで待機していた。声がかかるまでおなじボランティアの連中と雑談して時間を潰すのだが、その時にはつい無料のコカ・コーラを飲んでしまう。2週間ほどの期間だったと思うが、毎日、大量のコカ・コーラを飲んだ。そしてこのオリンピックも終了。当然ながらただのコカ・コーラを飲むことは出来なくなった。
そうすると何となくコカ・コーラを飲みたくなる、一種の中毒症状のようなものを感じた。しかし、そうそうコカ・コーラを買って飲むこともできないから、しばらくの間は飲みたい気持ちをぐっと我慢しなければいけなかった。もっともそのうちに、中毒症状のようなものはなくなっていたがー。
書棚の奥では昔からコカ・コーラの500ミリリットルのガラス製の空瓶が埃を被っている。この瓶は1972年頃に販売されていたということだから、その当時買ったものだろう。今ではコカ・コーラガラス瓶は姿を消していて、全部ペットボトルになっている。ガラス瓶は壊れやすいうえに何より重たい。しかし、49年前はこういったガラス瓶が普通だった。ただ、どうしてこんな空瓶を取っておいたのか、ひょっとしたらそんな札幌オリンピックでの個人的な記念のつもりだったのかも。