ぼくらの挑戦―それは
それが自分たちの舞台で勝ち得た栄冠だということが、すぐには信じられなかった。だが、間違いなく江藤誠悟(えとう・しょうご)らが演じた芝居は最優秀賞を獲得したのだった。
「全国青年大会演劇の部に相応しいテーマを取り上げ、それを自分たちの問題としたうえでの葛藤を続けなければ、決して生まれ得ない成果が見られた舞台でした。差別問題は決して見過ごしにしてはならない、社会全体が考え、よりよい対応を実践していかなければならない問題です。そのためにも、今回のあなた方の舞台が与えてくれた感動は、ここに集まった青年たちに、差別はまず意識することが何よりも大事なことなのだ、と知らしめてくれたように思います。皆さん、本当にいい舞台を有難う。これからも精進して頑張って下さい」
審査員長の講評は、誠悟と仲間たちの胸を熱く揺さぶった。昭和四十三年十一月、東京の空の下、彼らの芝居を手段にした差別への挑戦は、ようやくひとつの目標に辿り着いたのだ。
この東京で誠悟らが演じた芝居は、決して絵空事のものではなかった。今度の芝居作りに賭けた誠悟とその仲間二十人は自分たちの身近で日常茶飯事に限りなく繰り返される、非人間的な差別問題を真摯に見詰め、彼らなりに問題意識を高めて作り上げた舞台だった。そこに描かれたドラマの殆どは、彼らが現実に見聞きし、体験したものを直視して生まれたのである。
あの日、顧問的な立場の中川先生は、原稿用紙を束にした本の体裁のものを誠悟に差し出すと、彼から目を逸らさずに口を開いた。
「どうや、君らの手で、この芝居に取り組んでみいひんか。いや、君らがやってくれへんねんやったら、この芝居はまず成功しやへんやろ」
中川先生は加古川市の公民館活動でアマ劇団を指導している。その劇団が毎年上演する芝居は、かなり高い評価を得ていた。地方のアマ劇団であっても、決して京阪神の劇団の水準にひけは取らなかった。その噂は誠悟も耳にしてよく知っていた。
公民館のリーダー会議で、誠悟は中川先生と初めて知り合った。加古川市連合青年団の団長を務める誠悟は、公民館活動のリーダー会議にオブザーバー参加を要請されての出席だった。彼が座った席に隣り合わせたのが中川先生だった。
妙に意気投合するものがあって、二十代の誠悟と、もう四十近い中川先生の交際は以後もズーッと続くことになった。その中川先生が思い詰めたような顔付きで誠悟の自宅を訪れたのは、春が終わろうかという時期だった。
「僕らは青年団やで、先生」
誠悟は呆れたといった口調で返した。
「よう知ってるよ、そんなことは」
「知ってはるんやったら、こんなんお笑い草やないですか。ど素人の僕らに芝居やなんて、土台無理な相談ちゃいますか」
(そうや。芝居なら中川先生が指導しているアマ劇団でやるのんが一番ええんや。それを、先生ったら何を血迷うたこと言わはるんや、ほんまに)
誠悟の胸のうちはそんなふうだった。
「ともかく、この脚本を読んでみてくれ。返事はそれからして貰うたらええ。な、江頭くん、そないしてくれへんかいな」
「そやけど…時間の無駄ですわ……」
「君らでないと。この地域に生きとる君ら若い人らやないと、この芝居はホンマに表現出来ひんねん。この芝居だけは、嘘ごとで舞台に上げとうないんや。勿論、演技の指導や舞台の裏側は、全面的にわしとうちのもんが引き受けるつもりやで心配いらへん。どや、前向きに考えてくれへんか」
中川先生は少しも退く気はなかった。
「…そこまで先生が言わはるのに……。う、うん。それやったらいっぺん読ませて貰いますわ。そいから考えて……でも、先生、あんまし期待せんとって下さい。期待に応えられへんかも分からんし。へへへ、それに、俺って学校時分、国語は大の苦手やったさかいなあ」
誠悟は中川先生のしつこさに根負けの体で、ようやく脚本をしぶしぶ受け取った。
「うん。よう読んで、よく考えて、そいから答えをくれたらええ。僕はとにかくええ返事だけを待ってるさかい」
中川先生は顔を綻ばせて何度も頷いた。
脚本を預かってから、もう何位置になるだろうか。誠悟は公私にわたる忙しさにかまけて、脚本を開く気になれずにいた。普通の小説ならまだしも、脚本だけに、全く興味も湧かない。ただ焦りだけは徐々にやって来た。
(つづく)
(平成6年度のじぎく文芸賞優秀賞受賞作品)
それが自分たちの舞台で勝ち得た栄冠だということが、すぐには信じられなかった。だが、間違いなく江藤誠悟(えとう・しょうご)らが演じた芝居は最優秀賞を獲得したのだった。
「全国青年大会演劇の部に相応しいテーマを取り上げ、それを自分たちの問題としたうえでの葛藤を続けなければ、決して生まれ得ない成果が見られた舞台でした。差別問題は決して見過ごしにしてはならない、社会全体が考え、よりよい対応を実践していかなければならない問題です。そのためにも、今回のあなた方の舞台が与えてくれた感動は、ここに集まった青年たちに、差別はまず意識することが何よりも大事なことなのだ、と知らしめてくれたように思います。皆さん、本当にいい舞台を有難う。これからも精進して頑張って下さい」
審査員長の講評は、誠悟と仲間たちの胸を熱く揺さぶった。昭和四十三年十一月、東京の空の下、彼らの芝居を手段にした差別への挑戦は、ようやくひとつの目標に辿り着いたのだ。
この東京で誠悟らが演じた芝居は、決して絵空事のものではなかった。今度の芝居作りに賭けた誠悟とその仲間二十人は自分たちの身近で日常茶飯事に限りなく繰り返される、非人間的な差別問題を真摯に見詰め、彼らなりに問題意識を高めて作り上げた舞台だった。そこに描かれたドラマの殆どは、彼らが現実に見聞きし、体験したものを直視して生まれたのである。
あの日、顧問的な立場の中川先生は、原稿用紙を束にした本の体裁のものを誠悟に差し出すと、彼から目を逸らさずに口を開いた。
「どうや、君らの手で、この芝居に取り組んでみいひんか。いや、君らがやってくれへんねんやったら、この芝居はまず成功しやへんやろ」
中川先生は加古川市の公民館活動でアマ劇団を指導している。その劇団が毎年上演する芝居は、かなり高い評価を得ていた。地方のアマ劇団であっても、決して京阪神の劇団の水準にひけは取らなかった。その噂は誠悟も耳にしてよく知っていた。
公民館のリーダー会議で、誠悟は中川先生と初めて知り合った。加古川市連合青年団の団長を務める誠悟は、公民館活動のリーダー会議にオブザーバー参加を要請されての出席だった。彼が座った席に隣り合わせたのが中川先生だった。
妙に意気投合するものがあって、二十代の誠悟と、もう四十近い中川先生の交際は以後もズーッと続くことになった。その中川先生が思い詰めたような顔付きで誠悟の自宅を訪れたのは、春が終わろうかという時期だった。
「僕らは青年団やで、先生」
誠悟は呆れたといった口調で返した。
「よう知ってるよ、そんなことは」
「知ってはるんやったら、こんなんお笑い草やないですか。ど素人の僕らに芝居やなんて、土台無理な相談ちゃいますか」
(そうや。芝居なら中川先生が指導しているアマ劇団でやるのんが一番ええんや。それを、先生ったら何を血迷うたこと言わはるんや、ほんまに)
誠悟の胸のうちはそんなふうだった。
「ともかく、この脚本を読んでみてくれ。返事はそれからして貰うたらええ。な、江頭くん、そないしてくれへんかいな」
「そやけど…時間の無駄ですわ……」
「君らでないと。この地域に生きとる君ら若い人らやないと、この芝居はホンマに表現出来ひんねん。この芝居だけは、嘘ごとで舞台に上げとうないんや。勿論、演技の指導や舞台の裏側は、全面的にわしとうちのもんが引き受けるつもりやで心配いらへん。どや、前向きに考えてくれへんか」
中川先生は少しも退く気はなかった。
「…そこまで先生が言わはるのに……。う、うん。それやったらいっぺん読ませて貰いますわ。そいから考えて……でも、先生、あんまし期待せんとって下さい。期待に応えられへんかも分からんし。へへへ、それに、俺って学校時分、国語は大の苦手やったさかいなあ」
誠悟は中川先生のしつこさに根負けの体で、ようやく脚本をしぶしぶ受け取った。
「うん。よう読んで、よく考えて、そいから答えをくれたらええ。僕はとにかくええ返事だけを待ってるさかい」
中川先生は顔を綻ばせて何度も頷いた。
脚本を預かってから、もう何位置になるだろうか。誠悟は公私にわたる忙しさにかまけて、脚本を開く気になれずにいた。普通の小説ならまだしも、脚本だけに、全く興味も湧かない。ただ焦りだけは徐々にやって来た。
(つづく)
(平成6年度のじぎく文芸賞優秀賞受賞作品)