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こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

小説・僕らの挑戦ーそれは

2015年03月24日 00時04分33秒 | 文芸
ぼくらの挑戦―それは

 それが自分たちの舞台で勝ち得た栄冠だということが、すぐには信じられなかった。だが、間違いなく江藤誠悟(えとう・しょうご)らが演じた芝居は最優秀賞を獲得したのだった。
「全国青年大会演劇の部に相応しいテーマを取り上げ、それを自分たちの問題としたうえでの葛藤を続けなければ、決して生まれ得ない成果が見られた舞台でした。差別問題は決して見過ごしにしてはならない、社会全体が考え、よりよい対応を実践していかなければならない問題です。そのためにも、今回のあなた方の舞台が与えてくれた感動は、ここに集まった青年たちに、差別はまず意識することが何よりも大事なことなのだ、と知らしめてくれたように思います。皆さん、本当にいい舞台を有難う。これからも精進して頑張って下さい」
 審査員長の講評は、誠悟と仲間たちの胸を熱く揺さぶった。昭和四十三年十一月、東京の空の下、彼らの芝居を手段にした差別への挑戦は、ようやくひとつの目標に辿り着いたのだ。
 この東京で誠悟らが演じた芝居は、決して絵空事のものではなかった。今度の芝居作りに賭けた誠悟とその仲間二十人は自分たちの身近で日常茶飯事に限りなく繰り返される、非人間的な差別問題を真摯に見詰め、彼らなりに問題意識を高めて作り上げた舞台だった。そこに描かれたドラマの殆どは、彼らが現実に見聞きし、体験したものを直視して生まれたのである。
 あの日、顧問的な立場の中川先生は、原稿用紙を束にした本の体裁のものを誠悟に差し出すと、彼から目を逸らさずに口を開いた。
「どうや、君らの手で、この芝居に取り組んでみいひんか。いや、君らがやってくれへんねんやったら、この芝居はまず成功しやへんやろ」
 中川先生は加古川市の公民館活動でアマ劇団を指導している。その劇団が毎年上演する芝居は、かなり高い評価を得ていた。地方のアマ劇団であっても、決して京阪神の劇団の水準にひけは取らなかった。その噂は誠悟も耳にしてよく知っていた。
 公民館のリーダー会議で、誠悟は中川先生と初めて知り合った。加古川市連合青年団の団長を務める誠悟は、公民館活動のリーダー会議にオブザーバー参加を要請されての出席だった。彼が座った席に隣り合わせたのが中川先生だった。
 妙に意気投合するものがあって、二十代の誠悟と、もう四十近い中川先生の交際は以後もズーッと続くことになった。その中川先生が思い詰めたような顔付きで誠悟の自宅を訪れたのは、春が終わろうかという時期だった。
「僕らは青年団やで、先生」
 誠悟は呆れたといった口調で返した。
「よう知ってるよ、そんなことは」
「知ってはるんやったら、こんなんお笑い草やないですか。ど素人の僕らに芝居やなんて、土台無理な相談ちゃいますか」
(そうや。芝居なら中川先生が指導しているアマ劇団でやるのんが一番ええんや。それを、先生ったら何を血迷うたこと言わはるんや、ほんまに)
 誠悟の胸のうちはそんなふうだった。
「ともかく、この脚本を読んでみてくれ。返事はそれからして貰うたらええ。な、江頭くん、そないしてくれへんかいな」
「そやけど…時間の無駄ですわ……」
「君らでないと。この地域に生きとる君ら若い人らやないと、この芝居はホンマに表現出来ひんねん。この芝居だけは、嘘ごとで舞台に上げとうないんや。勿論、演技の指導や舞台の裏側は、全面的にわしとうちのもんが引き受けるつもりやで心配いらへん。どや、前向きに考えてくれへんか」
 中川先生は少しも退く気はなかった。
「…そこまで先生が言わはるのに……。う、うん。それやったらいっぺん読ませて貰いますわ。そいから考えて……でも、先生、あんまし期待せんとって下さい。期待に応えられへんかも分からんし。へへへ、それに、俺って学校時分、国語は大の苦手やったさかいなあ」
 誠悟は中川先生のしつこさに根負けの体で、ようやく脚本をしぶしぶ受け取った。
「うん。よう読んで、よく考えて、そいから答えをくれたらええ。僕はとにかくええ返事だけを待ってるさかい」
 中川先生は顔を綻ばせて何度も頷いた。

 脚本を預かってから、もう何位置になるだろうか。誠悟は公私にわたる忙しさにかまけて、脚本を開く気になれずにいた。普通の小説ならまだしも、脚本だけに、全く興味も湧かない。ただ焦りだけは徐々にやって来た。
(つづく)
(平成6年度のじぎく文芸賞優秀賞受賞作品)
 
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詩・畔焼き

2015年03月23日 13時51分37秒 | 文芸
畔焼き   さいとうつねよし
冷たい風が頬を刺激する
きのうまでは
温かかったのに
ああ~!だまされた
春先は油断できない
いつもこうだ

きょうは畔焼き
正真正銘の春を
迎えるための行事だ

冬の厳しい寒さに凍え
浅茶色に枯れた雑草を
焼き払う
冬の痕跡を跡形もなく
冷たい風の未練を
炎を走らせ断ち切ってしまう

てんてんと黒く焦げた跡
そこに土筆が顔を出す日は
もうすぐだ

春がやってくる
手筈は万全だ

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夜空の記憶

2015年03月23日 09時33分17秒 | 日記
 隣の村で祭りがあると、ガキ大将について子どもらだけで飛んで行った。隣村と言っても、ひと山越えていく。山の頂きにそった山道をどんどん歩いた。それがまた面白かった。
 出かけるのは、まだ日が高い時。みんな元気いっぱいでワイワイガヤガヤと歩いた。着いた神社は大賑わい。縁日の屋台がずらりと並んだ神社の境内で人ごみに揉まれながら、楽しくて夢中で時間を忘れた。  
・とっぷりと日が暮れた頃ようやく帰り道に着いた。日が落ちた山道は、来た時と違って細く狭く感じる。みんなの口は重くなった。仲間はいてもやはり夜は怖かった。それでも足元は明るい。見上げた暗い夜空にはくっきりとお月さまが浮かんでいた。暗い夜空にその黄色は映えて大きく頼りがいがあった。
 懐中電灯などめったにお目にかかれない時代。でも、月や星の明かりが、その代わりだった。夜空は星や月が競い合い、子供心をいつも楽しませてくれたものだ。
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就職はらしいところへ

2015年03月23日 00時09分27秒 | 日記
ほぼ五十年前、工業高校の電気科を卒業した。工業高校は製造分野の人材育成を目標に設置された教育機関だった。当時は入学すれば百%の就職率ともうたわれていた。
 級友らはそれぞれ名の知れた企業に就職した。工業高校の卒業生は、当時引く手あまただった。企業は学校で習得した専門技術を生かせる即戦力の人材を求めていたからである。
 電気科を卒業しながら、私が選んだ仕事は、書店の販売員を手始めに職種を転々とした。就寝雇用の時代に、そぐわぬ異端児だった。
 最終的には調理師になった私。同窓会の役員として創立五十周年記念行事に携わった時、会合で自己紹介の度に肩身の狭い思いをした。
「パナソニックで」「川崎重工で」「三菱で」と工業高校らしい職種を口にする役員たちの中で、「コックです」というのはかなり勇気を要した。別に恥じる事はないが、工業高校OBとしては、やはり気になる。学校推薦で就職していたら、同じように胸を張れたかも。
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今夜の食事は?

2015年03月22日 20時01分53秒 | つぶやき
今晩は私と娘とだけの夕食タイム。年頃の娘、とにかく好みが難しい。「何食いたい?」「なんでもいい」「ラーメンにするか?」「他のがいい」こんな感じ。結局、今夜はスパゲッテイーに。急いで湯を沸かし、グツグツの湯に放り込んで6分!手ごろな硬さと柔らかさ、ミートソースのレトルトをあっためてたのをドバー!ちなみに二人分。ソースが少ないと娘はメンだけ残すのだ。残れば私が食べる。そんなわけでますますメタボに近づいている。今夜は、娘がペロリ。これが父親としては一番うれしいんだよね。
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加西ロマンの里ウォーキングを歩く

2015年03月22日 15時30分25秒 | 日記
午後3時家につきました 今日は加西ロマンの里ウォーキングに参加していました。戦争遺跡コース20キロを黙々と歩きます。ゴールにつくと、なんと4時間30000歩歩いた勘定になりました。昨日歩いたの6000歩であることを考えると、驚き以外の何ものでもないです。実は昨年の上半期はウォーキングで小野・三木・加西・滝野・神崎と飛び回っていたのですが、10月に車をぶつけられて救急車のお世話に。以来、きょうまでウォーキングはお預けでリハビリの日々をおくっていたのです。おかげでメタボ予備軍に。食事療法も、根っから意地汚い性格はどうしようもなく、長続きせず、もう目の前真っ暗。それが、今日やっと半年ぶりにウォーキングに踏み切ったのです。(前みたいに完歩できるかな無理かな?)と不安を抱えての参加です。案に相違して20キロを歩きとおしました。もう万歳!高齢者の冷や水も、まだまだいけそう。参加者に小野、西神戸の顔なじみと久しぶりの顔合わせもうれしかったですね。また目標が持てました。もう少し若返って、次へチャレンジです。

みなさんもウォーキングどうですか?次回は小野アルプスを狙い……いやいや無理は禁物。自分の歳を考えて、じっくりといきましょうか。
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弁当のいれ方

2015年03月22日 00時31分18秒 | 日記
四十三で弁当製造会社に転職。夕方から翌朝まで夜間の仕事だった。休憩は深夜十二時過ぎ。休憩室には製造惣菜の余分なのが用意してある。従業員の夜食だった。いくら食べてもよかった。
 ところが内容はコロッケ・天麩羅・フライ…と油ものばかり。時々ならご馳走だが、毎夜だと、もううんざり。箸も出なくなった。
「はい。お弁当作ったから」
 夜食に対する愚痴を聞いた妻は、翌日早速弁当を作ってくれた。それまでは惣菜調理の仕事場に弁当は要らないでしょと言っていた妻も、よほど夫が気の毒に思えたのだろう。
 深夜の休憩。開いた弁当は感動もんだった。ほうれん草、人参、カボチャ、ブロッコリー…と野菜食材のオンパレード!味付けも和洋中とバラエティだ。しかもポットにはあったかい味噌汁。具はやはり野菜、わかめ、豆腐。
「プロを感動させるのは家庭料理が一番よ」
 帰ったら妻は胸を張り自慢たらたらだった。
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詩・老いと青春

2015年03月21日 20時18分19秒 | 文芸
老いと青春
あふれる情熱が
勿体ないと
思わなかった
そんな日があった

すみずみまで
探し求めても
どこかに
ひそんでしまった
情熱……
そんな日が
来てしまった

生きる意味が
なかなか
見つからない
そんな日を
迎えてしまった
でも
生きていく
もう少しだけ

ひとであることの
意味を問い続けながら
再び
出合えるだろうか?
あの情熱に……
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見るけど看ない老後

2015年03月21日 14時35分59秒 | 日記
見るけど看ないよあなたの老後

 結婚した当初、十三歳年下の妻は、実に初々しくて、食べてしまいたくなるほど可愛いらしかった。だのに、結婚十三年目にもなると「ア~ア」とため息をつきたくなるほど、ふてぶてしさを丸出しにし始めたのである。
 わが身も最近は、老眼が気になる年になった。そして、老いを感じると、ヤケに気が短くなるものらしい。すぐに妻に食ってかかるようになってしまった。
 昔の初々しい妻は、私にガミガミやられたら、すぐに涙を浮かべたものだが、甲羅を経た(?)妻は、大変身!私の文句タラタラなど馬の耳に念仏で、私の罵声が一段落するのを見計らって、
「それで、あなたがおじいちゃんになってしもたら、誰が面倒見てくれるのん?」
こういわれたら、ぐうの音も出なくなる。
十三歳の年齢差は、結婚当初の“頼られる夫と頼る妻”が、十三年の歳月で、百八十度の転換を余儀なくされる条件であったのを思い知るのだ。
「寝たきりになっても、ちゃんと私が面倒見てあげるから、心配はいらんのよ、ねェ」
 妻は、私の泣き所をようやく掴んで、自信満々である。その彼女は、ただいま三十代の女盛りで、まったくスキがない。私が今後、妻の泣き所を掴むなど不可能な話。下手に出て、妻の愛情の残りかすに縋るしか私の老後に光は差さない。
(1996年9月10日小学館当世夫婦口論②掲載)
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蕨の季節

2015年03月21日 09時42分33秒 | 日記
母はワラビ採りが生きがいだった。春になると何をさておいても山野に足を向けた。当然、子どもを引き連れていく。学校の宿題なんか後回しでいいと言う。誰かに先を越されてたまるものかと競争だった。
 確かに母はワラビ採りの穴場をよく知っていた。山のすそ野や池の土手にいったん入ると、もう夢中でワラビを摘む。開いていない若葉のものを手早く採取した。風呂敷いっぱいになった。家に戻ると、ワラビの調理だ。
 ワラビは重曹やカマドの灰を放り込んだ熱湯であく抜きをする。ひと晩漬けておくと、灰汁は抜けて食べられる。
 ワラビの季節は連日ワラビを使った献立が食卓を飾った。なかでもよく食べさせれたのが、ワラビの混ぜご飯にチラシ寿司。子供心に、もっとおいしいものを食べたいと何度おもったか。その望みは決して叶わなかった。
 今や高級食材のワラビだが、子供の頃のトラウマで、食べたいとは絶対思わない。
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