難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

落語に字幕放送

2005年08月21日 17時42分28秒 | 生活

050821_1318~001.jpgNHKは落語に字幕を付けて放送していた。声の出るコンマ何秒か前に字幕が出ているので、生放送ではない。夜には、日本テレビで「笑点」でも字幕放送をやっていた。これも録画だ。
落語に字幕が付くとよくわかる。映像と字幕のタイミングが合うのも分かりやすい理由だ。

民放の字幕制作には多くの補助金が使われているのに、見られる人が少ないのではもったいない。
字幕放送を見るには字幕放送対応テレビかアダプターが必要だ。家庭の普通のテレビで字幕放送対応のテレビは少ない。しかもそのテレビは地上波デジタル対応で十数万円もする。我が家も字幕放送内蔵テレビが寿命になったが買えないので、インターネットオークションで旧型の字幕放送テレビを求めたくらいだ。
字幕放送の見られるテレビを供給してこなかったテレビメーカーの責任は重いと言わざるを得ない。こういうと、かつては字幕放送対応テレビを発売していたが売れなかったとか、地上波デジタル放送のテレビは標準規格で字幕放送対応になっていると言う。
普通のテレビより数万円高いのでは誰も買わないのは当たり前だ。アメリカのように、全部のテレビを字幕放送対応にすれば良かったのだ。
地上波放送のデジタル化のスケジュールがあっても、テレビを買い替えることが出来ない人はどうなるのか、2011年までに地上波デジタル放送が全国で見られるようになるのか不透明だ。これは、デジタルデバイドそのものだ。郵政カイカクより、こっちの方が重要だ。

国がきちんと指導すべきだが、国の管轄も放送は総務省で、テレビ機器は経済産業省と分かれていることも原因ではないか。

ラビット 記





散髪屋のバリアフリー(2)

2005年08月21日 14時47分49秒 | 生活

050821_1334~001.jpg近所の散髪屋で半世紀の人生で初めての体験をした。
それは補聴器をしたままだったので、床屋さんと初めて会話できたのだ。
「指一本くらいに短く刈って下さい」
「すごく短いよ、一本半くらいでいいのではないの」
「それでお願いします」
耳元で、ハサミが紙を切る音が聞こえる。チョキチョキかと思っていたが、ジョキジョキに聞こえた。他の客が帰る時のありがとうございましたというのも聞こえる。
後頭部をチェックするのに、
「眼鏡いる?」
「要ります、要ります」
音楽は流れていなかった。テレビの音ではない何かが聞こえるがわからない。隣接しているスーパーの放送のようでもある。
途中で、洗髪するので補聴器を預けたら、タオルでくるんで受け取っていた。他にも補聴器を使う客がいるんだろう。

子供の頃、昼時前に入った床屋のおばさんが何か言ったがわからないまま、少年サンデーかを読んで待っていたがなかなか出てこない。待ちくたびれて、帰ってしまったことがあった。後で、母が聞いたのだが、お昼食べてしまうから待っててねと言われたのだ。子供の頃から、聞こえなくてわからない時、聞くことも出来ないままに育ってしまった。自分が難聴であることを行きつけの床屋さんは知っていたと思うが、伝えるすべは知らなかったのかもしれない。

foreighners昨日は、K線で乗り換えに困っている外人カップルがいたので、手に持っていた新聞の余白に、どこに行くのですか、H駅なら乗り換えですよと書いてみせたら、車内の路線図の駅を示す。「OK」(この電車でOKです)と言うと「Thank you、ありがとうございます」だって。聞こえなくてもコミュニケーションする方法を知っていればよいのだ。若い女性の笑顔がまぶしかったな。

地域生活におけるノーマライゼーションの必要性と効果を感じたことだった。

ラビット 記



教育における要約筆記の専門性

2005年08月21日 11時55分16秒 | 生活

bansyo2教育、それも大学などの高等教育機関だけではなく、小学校、中学校、高校などに要約筆記のボランティアが増えている。

教育における要約筆記は、社会一般における情報保障と一緒に論じることは出来ない。なぜならば、教育に責任を持つのは第一義的に市町村などの自治体であり、教育機関だ。その上で、授業、講義は教師の責任で行われていることだ。
教師は、要約筆記を主体的に、授業の獲得目標に沿って、使っていかなければならない。要約筆記者は、教室で教師の話すことを聞いて要約筆記するのに、教師からそのことを指導を受ける必要がある。
しかし、現実には難聴の児童、学生のいる授業の場に、要約筆記者が行って、書いているだけのように思われるが違うだろうか。授業は、小、中、高校、大学と学校教育のどの過程であれ、教師はその単元ごとにその教育目標と獲得目標を立て、授業の流れを組み立て、その時に使う教材や副教材を用意している。授業の中でどういう冗談というのか、時事問題などを話すにしても、教育効果を考えている。
教師が、難聴の児童、学生にそれを理解させるために、要約筆記が使わうのでなければならない。自分が話したことは後はどう書こうとお任せではない。
教師は、自分が話したことがどのように要約されるのか、どういう言葉を使って伝えられているのかまで責任を持たなければならない。要約筆記は自分の言ったことと逐一正確に全部書いてもらえれば良いと考えているならば、要約筆記は授業に導入してはいけない。
要約筆記者は、授業の中で教師が話していることの意味、何を理解させようとして話しているのかを理解していなければ、その言葉を要約できないだろう。教師が言った冗談で皆が笑った時、それを書きたい時でも書かない判断も必要だろう。書くのならば、事前に教師と打ち合わせが必要である。

教師が単元の獲得目標をどう説明し、要約筆記者が何を理解すれば良いのかについて、コーディネーターが必要である。
教育の要約筆記にも専門性が求められている。この専門性の確立があって初めて、教育における難聴児童、学生の権利が保障されるのではないか。

教師の経験のある要約筆記者の方の意見を聞きたい。

ラビット 記

上)全難聴で要約筆記通訳のカリキュラムの検討が行われている。
下)ヘルシンキの夏は、さやえんどうとトマト。皆、街中で生のまま食べている。昨年の7月の国際難聴者会議に行った時の写真。

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