難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

補聴器は「魅せる」ことで問題解決するのか?

2007年03月22日 13時39分44秒 | 生活
補聴器の技術が進歩していると言う。

確かに、補聴器の小型化やデジタル化によりその他の機能の発達は目覚しい。しかもスケルトンの補聴器や外観をカラーリングしたものも相次いで販売され、軽度難聴者の心理的抵抗に配慮したものとしている。

進化する補聴器 「隠す」から「魅せる」時代(産経新聞SankeiWeb、2007.3/19)
http://www.sankei.co.jp/seikatsu/trend/070319/trd070319000.htm

軽度難聴者などが補聴器に真理的抵抗を持っているのは事実だが、だからといって小型のものにしたり、スケルトンやカラーリングで目立たないようにすることで問題が解決しない。
これでは、「本人の」心理的抵抗が少なくなって補聴器が売れれば良いと言うことになってしまう。見えないつもりで見えてしまっている裸の王様だ。

なぜ心理的抵抗を持つのか、聞こえないことの理解が本人にも周囲にもないことが一番の問題だ。高齢化社会が進展している中で高齢難聴者が増えているが、どういうふうに困っているのか、どうしたら聞こえが確保できるのか、家族や周囲の人は々配慮したら良いのかが知られていないので、聞き間違いを恥ずかしく思わされてしまうからだ。

就学児童も家庭や地域で高齢者に出会うことも多くなっているのだから、高齢者とのコミュニケーション方法についてもっと学習をする必要がある。テレビももっと啓発をすべきだ。
補聴器会社や難聴者団体はどうしたら良いのかのノウハウや補聴援助システムなどを社会に普及するために、地域に人材を育て、普及すべきだろう。

ラビット 記




映画とプラネタリウムの字幕付け  要約筆記サークルの活動

2007年03月22日 08時20分40秒 | 生活
070321_1414~001.jpg070321_1539~001.jpg「付いた付いた字幕が付いた
字幕付き邦画初の一般上映
1982.5/22午後6:25~9:35
『東京流れ者』『独立愚連隊』
シネマスコーレ052・452・6036」

日本で早くから邦画に字幕を付けた要約筆記サークル「まごのて」の代表だった下出隆史さんの講演が港区の東京都障害者福祉会館であった。

1982年にOHPで字幕付き映画を上映したのは名古屋のシネマスコーレだった。この字幕を作成したのが「まごのて」だった。

下出さんは25年間も続けられてきた映画の字幕制作とプラネタリウムの字幕制作のノウハウの披露ではなく、何故続けられたのかが淡々とはなされたのが凄いところだ。
字幕はそのまま文字にするのか、要約するのか、いろいろ工夫してこられたことを情報保障の理念から整理されている。
プラネタリウムの字幕はその都度話される内容がことなり、苦労されたそうだ。

これは字幕とも通訳とも違っていることを図解で説明されていたのは興味深い。

冒頭の文句は最初の一般上映の時の手作りのチラシの見出しだ。
その時のチラシの見出しは
「日本語の字幕の付いた日本映画に日本人が観る!どこがおかしい!」
だ。聞こえない人と一緒に取り組んだことについて、聞こえない人への共感、取り組みへの意思の強さなどが感じられる。

ラビット 記  


講演者の下出さんから、下記のコメントを頂きました。
お詫びして、上記本文を修正します。
「日本で最初にOHPを使って日本映画に字幕を付けたのは、おそらく、広島の手話サークル「あすなろ」だと思います。1974年、あすなろは、「寅さん」と「キッド」に字幕を付けました。記録に残っている限り、これが最初です。また一般映画館での字幕付き上映も、1981年に広島市の松竹東洋座で「はるかなる山の呼び声」に字幕を付けた記録が残っています。ご参考まで。」