難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

永年勤続30年の難聴者の思い

2009年04月03日 08時28分34秒 | 就労
090402-130715.jpg090402-130729.jpg一昨日の4月1日、勤務先で永年勤続の表彰を受けた。

皆の前でどう挨拶をしようか考えていたが、なかなかスタンスが決まらなかった。

30年前入社してから、社名は3度変わった。配属先は3回だけ変わったが一番長いのは工場勤務だった。23年間は工場で、3年前からが今の職場になる。
入社の時から、難聴であることはずーっとついて回った。就職試験、面接の時から、補聴器をどうするか、難聴であることをどう説明するか、悩んだ。会社には行った頃は今よりも聞こえていたが、それでも立ち話でも分からないことが多かった。

まだ工場勤務時代、仕事が終わって、上司に昏々と飲み屋で「諭され」たことがあり、同席していた夫人から「もう良いじゃない」と言われて解放されたが、何を言われたのかいまだに分からないままだ。

会議で聞こえないので手話通訳を何度も依頼したが、「今は会社の経営が厳しい」との一言で断られた。一回は障害のある子供を持つ上司の時、もう1回は会社役員の説得に抗して退職する際に残った有給休暇を消化した反骨な上司の時だった。そうした上司であっても、難聴者の会議に参加するための費用の支出を経営陣に説得するには至らなかったということだ。
それでも、ようやく手話通訳が付いたが異動でまた会議に通訳がいなくなってしまった。

仕事に関する情報は会議や日常の会話から入るが、会社が取引停止になる事故を起こした際も何が起きたのか分からずに数ヶ月が過ぎた。あとで分かってもショックも感じないくらいだった。

3年前、機会やコンピュータが相手ではないスタッフと仕事をする立場になって、「決死」の思いで要約筆記の派遣を求めた。
幸い理解のある上司のおかげで、要約筆記が毎週の会議に付くことになった。ももなく3年になるが会議の内容が分かることで仕事への意欲も責任が出てきた。

30年の勤務のうち最後の3年間が本当の勤務のような思いだ。
(続く)


ラビット 記