難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

消費者庁と放送・通信サービス

2009年04月17日 20時12分45秒 | 放送・通信
090416-084401.jpg消費者庁法案が成立すれば、障害者の利用する商品や放送。通信などのサービスのアクセシビリティも対象になるだろうか。

政府公報onlineによると、
「消費者庁は、商品・金融などの「取引」、製品・食品などの「安全」、「表示」など、消費者の安全安心に関わる問題を幅広く所管し」
http://www.gov-online.go.jp/pr/theme/syohisyatyo_setti.html
とあり、障害者の利用する製品、「該当しないように見える。

しかし、テレビ放送が放送事業者の製品、あるいは提供企業の製品とみなせば、「安全に」無理なくすぐにアクセスできるかどうかは、生命に関わる重要な問題だ。

障害者権利条約は、第2条に、ユニバーサルデザインの定義を示している。

「ユニバーサルデザイン」とは、調整又は特別な設計を必要とすることなく、最大限可能な範囲ですべての人が使用することのできる製品、環境、計画及びサービスの設計をいう。ユニバーサルデザインは、特定の障害者の集団のための支援装置が必要な場合には、これを排除するものではない。 (政府仮訳)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/shomei_32b.html

消費者庁は、金融などの取引(サービス)、製品、食品が安全・安心して利用できるか一元的に扱う省庁だ。

消費者たる障害者にとって、サービスや製品が使えるかどうか、情報が分かるかどうかは重要な品質だ。
つまり、一般消費者にとって、取引、製品、食品に求められるのは安全、安心という品質だが、障害者にとっては、アクセシビリティも重要な品質なのだ。

タクシーの乗車拒否は、タクシーサービスを利用する消費者の問題だ。こんにゃくゼリーの形状、柔らかさは高齢者、幼児という消費者の安全の問題だ。

成立した消費者庁は、「消費者・生活者の視点に立つ行政への転換の象徴」(政府公報onlineより)であれば、障害者権利条約上も批准すればなおさらのこと、アクセシビリティについても取り扱うことが求められるようになる。
消費者庁、消費者委員会が、所轄官庁に対して、企画立案や改善の勧告を求めなければならない。


ラビット 記




人工内耳する人の主体性

2009年04月17日 13時29分05秒 | 人工内耳
090411-122505.jpg先週の土曜日の人工内耳に関するフォーラムで会った人に「最近どう?聞こえの方は?」と聞かれた。

一人には、「うん、まあまあだね」と答えたが、もう一人には思わず、「それは聞かないで。人はそれぞれなんだから。順調に聞こえるようになっているなら良いがそうでない場合その人にプレッシャーを与えることになる。簡単に聞かないでほしい」と言ってしまった。

何で違う受け答えをしたのか、考えてみた。
最初の問いかけた人は挨拶だった。挨拶して近づかずに離れていった。もう一人は、言ってから近づいてきた。

前にも感じていたのだが自分の内面に踏み込まれそうに感じたので拒否してしまった。

人工内耳をした人はその結果や療後はまちまちだ。日々の生活の中で苦悩している人も少なくないだろう。術後間もない人はなおさらだ。
医師もSTも、患者がどのような心理状況にあって、何を求めているかは十分知らない。常時、患者に向き合っているわけでもなく、診察時もそう時間はない。

心理的サポートをするのは専門家と思う。アメリカでも長い就学期間と訓練、試験を経て、サイコセラピストになる。
オージオロジストがサイコセラピーを兼ねるようになってきたのも最近のことだという。

メーカーが人工内耳「啓発」アドバイザーを養成しているところもあるがそのプログラムはどうなっているのだろう。どういう役割を与えているのか。
医師とSTの連携が出来るのか。倫理基準を持っているのか。
「啓発」の役割と患者への対応とはきちんと区別されないと患者を傷つけることにならないだろうか。

必要なのは医療と福祉の領域で活動するメディカル・ソーシャルワーカー、心理療法士ではないのか。
精神的な側面を持つ問題は、十分に慎重に対処が必要だ。

自分でも同僚に職場で就業復帰のトレーニングをしているが専門家の助言もない中で不安が多い。


ラビット 記




NHKの日曜美術館に字幕が付いている

2009年04月17日 08時33分20秒 | 生活
090412-090137日曜.jpg090412-092123日曜2.jpg先週の日曜日4月12日、朝9時からの「日曜美術館」を見た。
字幕放送が始まっていると聞いたからだ。

聞いている感じでは、言われるような音声と字幕の表記上のずれは、感じられなかった。
表記のずれは字幕がきちんとした日本語の文章になっているかどうかは話し手がきちんと話しているかどうかではないだろうか。

話し言葉は、人によっては、あー、えーという言葉が入るだけならまだしも、「これは私が思うに」とか、「まあ、なんと言ったらよいか」などの言葉を頻繁に挟む割に趣旨のはっきりしないことをだらだら話す人もいる。

これをそのまま字幕にしても読んで分からないので、それを整文化する必要がある。わかりにくいことも音声で聞いている人は聞くことで何を言っているのだろうと考えられるからまだ良い。読む場合はそれができないかしにくいので、意味が通る文章にする必要があると考えている。
テレビにおける通訳行為ということだ。


ラビット 記