道を先に進むがなかなか小屋は見えてこない。大きなテラスの手前を道が登っているのが見える。小屋はあの上かなと思いながら歩いていると、急に山小屋が目の前に現れた。
あ、もう着いちゃった。
小屋の手前に分かれ道があり、洞窟まで10分、の小さな看板。
小屋は二階建てで下がキッチン、リビング、テラス。トイレとバンクルーム(寝室)は二階だ。
荷物を置き、ヘッドランプを片手に洞窟へ向かう。洞窟までは10分ほど、なだらかな丘を越えていく。道の脇には石灰岩のかけらがゴロゴロしている。
入り口の急な階段を下り中へ入る。入り口付近は外の光が差し込むが、その奥は真っ黒い闇が口を開いている。
「青白緑黒の黒だ」
僕は思わず叫んだ。洞窟内に声が響く。
青白緑黒とは、以前から書きためたニュージーランドでのアウトドアの話を自分でコピーして折って穴を開けヒモで綴った本である。全部手作業の自費出版ならぬ家内制手工業出版のボクの本なのだ。この地球上に約50冊ぐらい存在する。
「青白緑黒ってどう読むんですか?」と聞かれるが、深く考えることはない。『あおしろみどりくろ』そのままである。
僕がこの国で遊びながら見てきた色。青は空の青、海の青、湖の青、氷河の青。白は雲の白、雪の白、花の白、緑は森の緑、コケの緑、シダの緑、木の緑。黒は闇夜の黒、そして洞窟内の闇の黒なのだ。
その真っ暗な黒が目の前にある。
トーチの明かりを頼りにそろりそろりと入っていく。
本来なら予備の明かりを持つべきだが、あいにくと持っていない。かろうじて外の光が届くあたりまで、進んではトーチを消して振り返り確認して、ということを繰り返しながら進む。
たいして進んではいないが、もうこのへんでいいだろう、という所で止まる。一人というのはどうしても限界がある。
ライトに照らされた岩壁は、パイプオルガンのように白い岩のひだが並ぶ。自然の造り上げる物は美しい。
ライトの光が届く奥にも洞窟は続き、不気味な黒を見せている。
ライトを消し、独りしばらく黒い世界に身を浸す。
人間とは何とちっぽけな存在だろう。
地球上では人間の意識は外へ外へと向かっている。
海、山、大地、空、その外の宇宙へ。
だが自分の足元にもこういう世界は存在する。地球内部のことも本で読み映像で見て、知った気になっている。が、人間の能力で行ける所まで行き、その世界に身を置く事も大切なことなのだ。
僕は黒い闇を見ながらボンヤリ、そんなことを考えていた。
洞窟から出て、再び光の世界、目に見える世界に戻ってきた。闇に慣れた目には外の世界はまぶしい。そしてまた、外の世界は色々な色があるものだ。空の青、雲の白、湖の青、そして木々の緑。
こうやって色を感じるのも闇を知ればこそ、なのだろう。
小屋へ戻る途中に道を外れた踏み跡があった。それは斜面の途中にある凹みへ続き、水音が聞こえる。
誘われるように踏み跡をたどると小さな水の流れがあり、凹みの中央から地中へ消えていた。
ここにも別の洞窟があるが、入り口が狭く人間は入っていけない。さっきと同じような洞窟がこの辺にはいくつもあり、地中で迷路のようになっている。迷路の岩はさっき登ってきた時に見た巨大な石灰岩へ続く。
水をすくって二口、三口。ウマイ水だ。
安心して飲めるうまい水。きれいな空気。人間という動物が生きるのに大切なものがここにある。豊かとはこういうことを言う。
小屋へ戻る途中で初老の日本人男性がやってきた。ミホコの親父だ。
「こんちは。覚えていますか?ミホコの結婚式でアロハでギターを弾いた者です。」
「ああ、どうもその節は」
「娘さんに会って話は聞いてます。僕もほぼ同じ行程で歩きます。どうぞよろしく。お父さん、今から洞窟へ?僕は今行ってきた所です。まあ、小屋で待ってますから一杯やりましょう」
挨拶をして小屋に戻り、荷物の整理。この小屋は水が豊富にあるのだろう、外のテラスには流しっぱなしの水道がある。ビールを冷やすにはことかかない。豊かだ。
ちょうどビールが冷える頃、ミホコ父が帰ってきた。
「いやあ、お父さん、お帰りなさい。お疲れ様でした。ときにお父さん、お酒は好きですか?」
「ええ、まあ、お酒ならなんでも好きです。」
「じゃあこんな景色を見ながらビールなんてどうですか?一杯やりましょう」
「かつぎあげたんですか?」
「ええ。もうほどよく冷えていますよ。じゃあ日の当たる場所でやりましょう。
秋の日はすでにかたむき、小屋のテラスは影の中に入ってしまった。山では影に入ったとたんに冷える。10mほど離れたヘリパッドが一番日当たりが良い。先客にドイツ人らしき女の子が一人で編み物をしている。
「やあ、ここはハットの中で一番の場所だね」
僕らはヘリパッドの橋に座りビールを開けた。今日のビールはスパイツだ。
「おっと、今日は『大地に』だな。お父っつぁん、僕はねこうやって地球で遊ばせてもらった時に飲む最初のビールを、こうやってまず大地にささげるんですよ」
いつもの儀式をやる。ミホコ父がじっと見る。
「そしてカンパイですね。かんぱーい、お疲れ様でしたー」
ほどよく冷えたビールがのどを潤す。炭酸の刺激がここちよい。
「プハー、ウメー」
至福の瞬間である。
「ウマイっすね、おとっつぁん。僕はね、この時間、この瞬間にこういう場所に身を置く。この感覚が大好きなんですよ」
親父がうんうんと頷く。感覚を分かち合うのにたくさんの言葉はいらない。
「おとっつぁん、日本の山はあちこち登りましたか?」
「ええ、若い時には岩登りなんかもやりましたしね。だけど私はあちこち行くんではなくて同じ山に何回も登っちゃうんですよ」
「そうですか。同じ山でも季節が変われば顔も違いますしね」
「そうそう」
「トレッキングも同じです。毎日同じ所を歩いていても、昨日つぼみだった花が今日咲いているとか、昨日立っていた木が今日倒れちゃったとかね。いろいろな変化があるもんなんですね」
「うんうん。じゃあ親御さんも山やってたんですか?」
「ええ、冬山はやらなかったみたいだけど。それで僕の名前の聖はあの聖岳からもらったんです。名前ををもらうだけもらって、まだ登ったことはないんですけどね」
聖岳は日本の南アルプス、長野と静岡の県境にあり3000mをちょっとこえる山だ。いつかは登らなくてはならない山だ。
「実はねワタシも。ミホコのホは穂高の穂なんです」
ここにも山バカオヤジがいた。ミホコはそのことを知っているのだろうか。
「聖さんのご両親は健在で?」
「父は生きてますが、母は10年以上前に山で死にました」
「え?それはどうして?」
「滑落です。中学生の遠足で行くような簡単な山へ僕と両親と3人で登ったんですが、帰りに道を踏み外して・・・。」
「そうですか・・・。ワタシも仲間が何人も山で死んでいます」
場の雰囲気が湿っぽくなった。こういうのは苦手だ。
「まあ、即死だったので苦しまなかったから良かったと今では思っています。一つ心残りがあるとしたら、自分が山歩きのガイドなのに母親をこういう場所に連れて来れなかった事ですね。普通の観光はしたんですが、できることならこの国の山に連れてきたかったですね」
「なるほど」
「親孝行 したい時には 親は無し って言いますよね。それで何年か前に父に電話をして言ったんです。『今、アンタに死なれたらオレが後悔するから、もう一度ニュージーランドに来てくれ。どういう所で仕事をしているか見てくれ』それで父が来まして、僕と娘と父で南島をぐるっと回ったんです。もう年なのでこういう泊まりがけの山歩きはできなかったけど、日帰りのハイキングをあちこちやりましてね、それで父に言いました。『こういう景色をアンタが死ぬ前に見せたかったんだ。もうオレがどういうことをやっているか分かったでしょ。あとはいつ死んでもいいよ。死ぬ時はポックリ逝ってくれ』そしたら『オレだってポックリ逝きたいわ。オレが死んでも日本に帰ってこなくていいからな。死んであわてて帰ってくるぐらいなら生きているうちに帰ってこい』ですって。まあ、子離れできた親で助かります」
いつのまにか僕のビールが空いた。
「おとっつぁん、場所を移してもう一杯やりましょう」
一度小屋に戻りビールを出す。空いた缶をつぶしゴミ袋に入れる。
「おとっつぁん、それもつぶしますからボクにください」
「いや、まだ入っているんです」
貴重なビールだ、チビチビやっていたんだろう。
「えーっ!まだ残っているんですか?でももうそんなにたくさんないでしょう。もう一本ありますから、飲み干しちゃって下さいな」
僕らは新しいビールを持ち、100mほど離れた場所に移った。ここの方が景色が良い。
タソックの上に座り、2本目のスパイツを開ける。2回目は『大地に』は無しだ。足元にはテアナウ湖の支流が細長く広がる。
「おとっつぁん、ニュージーランドは歩きましたか?」
「ええ、何年か前にミルフォードトラックを。今回はこれが終わったらルートバーンを歩く予定です」
「それはいい。だけどねお父さん、ミルフォードもルートバーンも泊まる小屋からこれだけの景色が見える所は無いんです。ミルフォードの小屋はみんな谷の中だったでしょ?」
「そう言われてみればそうですね」
「ルートバーンも2日めの小屋は高台にあるけど、これだけの景色はないですね」
「そうですか」
「楽しみましょう。この瞬間を」
僕が今まで行った小屋でここより景色が良いのは、ハンプリッジのオカカハットだろう。
「下から上がってくると、ここで小屋が見えてくるじゃないですか。その時に思ったんですよ。もっとビールをたくさん持ってくれば良かったってね。そうすればもっと景気良く飲めたんですけどね」
「いえ、もうこれで充分です」
「今日は星もきれいそうですね」
「ええ、テアナウで星を見て思ったんですが、ここは星が大きいですね」
星が大きいと表現する人に初めて会った。
日が沈むと気温はぐっと下がる。一番星が瞬き始めた。
小屋に戻り、夕飯だ。
ラックスモア・ハットは定員55人。今日は半分以下の23人。4月に入ると人も少なくなる。おかげで各自スペースがふんだんにありとても良い。
小屋の中で親父がうれしそうに言った。
「娘の写真を見つけました」
娘の写真とは小屋に貼ってあるボランティアのポスターのことだ。
ケプラートラックでは鳥を保護する目的で、動物のワナがいくつもしかけてある。ルートバーンやミルフォードのワナはトラックから少し離れた目立たない所にあるが、ここは道のすぐ脇にしかけてある。歩いていれば、いやがうえでも目に入る。
そうやって地元の人間が協力して自然を守っていこうというポスターに自分の娘が写っている。ポスターの中のミホコはワナの餌を代えている作業中。
これほどの親孝行はない。正直、ずるいと思ったぐらいだ。
親父はどんな気持ちでこれを見ただろう。
夜は満点の星空である。月は半月、ややまぶしい。小屋の影に入り星を眺める。
今回は夜、冷えるだろうとダウンジャケットを持ってきた。まるで寝袋を着ているようなものだ。これなら何時間でも外にいられる。
山小屋の管理人のリチャードが外にでてきて言葉を交わす。自分がトレッキングガイドだと告げると、会話はすぐにローカル同士の一歩踏み込んだ話になる。
これが一般の人との会話だと、ミルフォードトラックはどうだ?とかルートバーンは?などと質問攻めになる。シーズンも終わり近くになると管理人もそういった初歩手的な質問にあきあきすることだろう。
「あの日本人のおじさんは一緒に行動してるのか?」
「いや、たまたまここで出会った。あのおじさんはポスターに写ってる娘の父親だよ。ミホコはあったことはあるか?以前はテアナウ・ドックで働いていたんだけど」
「いや、オレはここは1年目だから知らないな」
「じゃあ、シンジはどうだ?知ってるだろ」
山友トーマスは僕らの身内ではトーマスだが、それ以外ではシンジで通っている。というよりもともとがシンジなのだ。
「おお、シンジか、よく無線で声を聞いているよ。今はマーチソンに入っているはずだ。うらやましい野郎だぜ」
「そのクソうらやましい野郎の義理の父親があのおじさんだよ」
月の明かりで山々がくっきりと浮かび上がる。半月でこれなんだから、満月だったらすごいだろう。
以前、満月の晩を狙って山に登りに行く、と言ってた友達がいたが、そのとおりだ。ただし生活をしていると、そうそうお月様に日程を合わせられるものでもない。
星が大きい、と言っていたミホコ父はどうやら寝てしまったようだ。
続
あ、もう着いちゃった。
小屋の手前に分かれ道があり、洞窟まで10分、の小さな看板。
小屋は二階建てで下がキッチン、リビング、テラス。トイレとバンクルーム(寝室)は二階だ。
荷物を置き、ヘッドランプを片手に洞窟へ向かう。洞窟までは10分ほど、なだらかな丘を越えていく。道の脇には石灰岩のかけらがゴロゴロしている。
入り口の急な階段を下り中へ入る。入り口付近は外の光が差し込むが、その奥は真っ黒い闇が口を開いている。
「青白緑黒の黒だ」
僕は思わず叫んだ。洞窟内に声が響く。
青白緑黒とは、以前から書きためたニュージーランドでのアウトドアの話を自分でコピーして折って穴を開けヒモで綴った本である。全部手作業の自費出版ならぬ家内制手工業出版のボクの本なのだ。この地球上に約50冊ぐらい存在する。
「青白緑黒ってどう読むんですか?」と聞かれるが、深く考えることはない。『あおしろみどりくろ』そのままである。
僕がこの国で遊びながら見てきた色。青は空の青、海の青、湖の青、氷河の青。白は雲の白、雪の白、花の白、緑は森の緑、コケの緑、シダの緑、木の緑。黒は闇夜の黒、そして洞窟内の闇の黒なのだ。
その真っ暗な黒が目の前にある。
トーチの明かりを頼りにそろりそろりと入っていく。
本来なら予備の明かりを持つべきだが、あいにくと持っていない。かろうじて外の光が届くあたりまで、進んではトーチを消して振り返り確認して、ということを繰り返しながら進む。
たいして進んではいないが、もうこのへんでいいだろう、という所で止まる。一人というのはどうしても限界がある。
ライトに照らされた岩壁は、パイプオルガンのように白い岩のひだが並ぶ。自然の造り上げる物は美しい。
ライトの光が届く奥にも洞窟は続き、不気味な黒を見せている。
ライトを消し、独りしばらく黒い世界に身を浸す。
人間とは何とちっぽけな存在だろう。
地球上では人間の意識は外へ外へと向かっている。
海、山、大地、空、その外の宇宙へ。
だが自分の足元にもこういう世界は存在する。地球内部のことも本で読み映像で見て、知った気になっている。が、人間の能力で行ける所まで行き、その世界に身を置く事も大切なことなのだ。
僕は黒い闇を見ながらボンヤリ、そんなことを考えていた。
洞窟から出て、再び光の世界、目に見える世界に戻ってきた。闇に慣れた目には外の世界はまぶしい。そしてまた、外の世界は色々な色があるものだ。空の青、雲の白、湖の青、そして木々の緑。
こうやって色を感じるのも闇を知ればこそ、なのだろう。
小屋へ戻る途中に道を外れた踏み跡があった。それは斜面の途中にある凹みへ続き、水音が聞こえる。
誘われるように踏み跡をたどると小さな水の流れがあり、凹みの中央から地中へ消えていた。
ここにも別の洞窟があるが、入り口が狭く人間は入っていけない。さっきと同じような洞窟がこの辺にはいくつもあり、地中で迷路のようになっている。迷路の岩はさっき登ってきた時に見た巨大な石灰岩へ続く。
水をすくって二口、三口。ウマイ水だ。
安心して飲めるうまい水。きれいな空気。人間という動物が生きるのに大切なものがここにある。豊かとはこういうことを言う。
小屋へ戻る途中で初老の日本人男性がやってきた。ミホコの親父だ。
「こんちは。覚えていますか?ミホコの結婚式でアロハでギターを弾いた者です。」
「ああ、どうもその節は」
「娘さんに会って話は聞いてます。僕もほぼ同じ行程で歩きます。どうぞよろしく。お父さん、今から洞窟へ?僕は今行ってきた所です。まあ、小屋で待ってますから一杯やりましょう」
挨拶をして小屋に戻り、荷物の整理。この小屋は水が豊富にあるのだろう、外のテラスには流しっぱなしの水道がある。ビールを冷やすにはことかかない。豊かだ。
ちょうどビールが冷える頃、ミホコ父が帰ってきた。
「いやあ、お父さん、お帰りなさい。お疲れ様でした。ときにお父さん、お酒は好きですか?」
「ええ、まあ、お酒ならなんでも好きです。」
「じゃあこんな景色を見ながらビールなんてどうですか?一杯やりましょう」
「かつぎあげたんですか?」
「ええ。もうほどよく冷えていますよ。じゃあ日の当たる場所でやりましょう。
秋の日はすでにかたむき、小屋のテラスは影の中に入ってしまった。山では影に入ったとたんに冷える。10mほど離れたヘリパッドが一番日当たりが良い。先客にドイツ人らしき女の子が一人で編み物をしている。
「やあ、ここはハットの中で一番の場所だね」
僕らはヘリパッドの橋に座りビールを開けた。今日のビールはスパイツだ。
「おっと、今日は『大地に』だな。お父っつぁん、僕はねこうやって地球で遊ばせてもらった時に飲む最初のビールを、こうやってまず大地にささげるんですよ」
いつもの儀式をやる。ミホコ父がじっと見る。
「そしてカンパイですね。かんぱーい、お疲れ様でしたー」
ほどよく冷えたビールがのどを潤す。炭酸の刺激がここちよい。
「プハー、ウメー」
至福の瞬間である。
「ウマイっすね、おとっつぁん。僕はね、この時間、この瞬間にこういう場所に身を置く。この感覚が大好きなんですよ」
親父がうんうんと頷く。感覚を分かち合うのにたくさんの言葉はいらない。
「おとっつぁん、日本の山はあちこち登りましたか?」
「ええ、若い時には岩登りなんかもやりましたしね。だけど私はあちこち行くんではなくて同じ山に何回も登っちゃうんですよ」
「そうですか。同じ山でも季節が変われば顔も違いますしね」
「そうそう」
「トレッキングも同じです。毎日同じ所を歩いていても、昨日つぼみだった花が今日咲いているとか、昨日立っていた木が今日倒れちゃったとかね。いろいろな変化があるもんなんですね」
「うんうん。じゃあ親御さんも山やってたんですか?」
「ええ、冬山はやらなかったみたいだけど。それで僕の名前の聖はあの聖岳からもらったんです。名前ををもらうだけもらって、まだ登ったことはないんですけどね」
聖岳は日本の南アルプス、長野と静岡の県境にあり3000mをちょっとこえる山だ。いつかは登らなくてはならない山だ。
「実はねワタシも。ミホコのホは穂高の穂なんです」
ここにも山バカオヤジがいた。ミホコはそのことを知っているのだろうか。
「聖さんのご両親は健在で?」
「父は生きてますが、母は10年以上前に山で死にました」
「え?それはどうして?」
「滑落です。中学生の遠足で行くような簡単な山へ僕と両親と3人で登ったんですが、帰りに道を踏み外して・・・。」
「そうですか・・・。ワタシも仲間が何人も山で死んでいます」
場の雰囲気が湿っぽくなった。こういうのは苦手だ。
「まあ、即死だったので苦しまなかったから良かったと今では思っています。一つ心残りがあるとしたら、自分が山歩きのガイドなのに母親をこういう場所に連れて来れなかった事ですね。普通の観光はしたんですが、できることならこの国の山に連れてきたかったですね」
「なるほど」
「親孝行 したい時には 親は無し って言いますよね。それで何年か前に父に電話をして言ったんです。『今、アンタに死なれたらオレが後悔するから、もう一度ニュージーランドに来てくれ。どういう所で仕事をしているか見てくれ』それで父が来まして、僕と娘と父で南島をぐるっと回ったんです。もう年なのでこういう泊まりがけの山歩きはできなかったけど、日帰りのハイキングをあちこちやりましてね、それで父に言いました。『こういう景色をアンタが死ぬ前に見せたかったんだ。もうオレがどういうことをやっているか分かったでしょ。あとはいつ死んでもいいよ。死ぬ時はポックリ逝ってくれ』そしたら『オレだってポックリ逝きたいわ。オレが死んでも日本に帰ってこなくていいからな。死んであわてて帰ってくるぐらいなら生きているうちに帰ってこい』ですって。まあ、子離れできた親で助かります」
いつのまにか僕のビールが空いた。
「おとっつぁん、場所を移してもう一杯やりましょう」
一度小屋に戻りビールを出す。空いた缶をつぶしゴミ袋に入れる。
「おとっつぁん、それもつぶしますからボクにください」
「いや、まだ入っているんです」
貴重なビールだ、チビチビやっていたんだろう。
「えーっ!まだ残っているんですか?でももうそんなにたくさんないでしょう。もう一本ありますから、飲み干しちゃって下さいな」
僕らは新しいビールを持ち、100mほど離れた場所に移った。ここの方が景色が良い。
タソックの上に座り、2本目のスパイツを開ける。2回目は『大地に』は無しだ。足元にはテアナウ湖の支流が細長く広がる。
「おとっつぁん、ニュージーランドは歩きましたか?」
「ええ、何年か前にミルフォードトラックを。今回はこれが終わったらルートバーンを歩く予定です」
「それはいい。だけどねお父さん、ミルフォードもルートバーンも泊まる小屋からこれだけの景色が見える所は無いんです。ミルフォードの小屋はみんな谷の中だったでしょ?」
「そう言われてみればそうですね」
「ルートバーンも2日めの小屋は高台にあるけど、これだけの景色はないですね」
「そうですか」
「楽しみましょう。この瞬間を」
僕が今まで行った小屋でここより景色が良いのは、ハンプリッジのオカカハットだろう。
「下から上がってくると、ここで小屋が見えてくるじゃないですか。その時に思ったんですよ。もっとビールをたくさん持ってくれば良かったってね。そうすればもっと景気良く飲めたんですけどね」
「いえ、もうこれで充分です」
「今日は星もきれいそうですね」
「ええ、テアナウで星を見て思ったんですが、ここは星が大きいですね」
星が大きいと表現する人に初めて会った。
日が沈むと気温はぐっと下がる。一番星が瞬き始めた。
小屋に戻り、夕飯だ。
ラックスモア・ハットは定員55人。今日は半分以下の23人。4月に入ると人も少なくなる。おかげで各自スペースがふんだんにありとても良い。
小屋の中で親父がうれしそうに言った。
「娘の写真を見つけました」
娘の写真とは小屋に貼ってあるボランティアのポスターのことだ。
ケプラートラックでは鳥を保護する目的で、動物のワナがいくつもしかけてある。ルートバーンやミルフォードのワナはトラックから少し離れた目立たない所にあるが、ここは道のすぐ脇にしかけてある。歩いていれば、いやがうえでも目に入る。
そうやって地元の人間が協力して自然を守っていこうというポスターに自分の娘が写っている。ポスターの中のミホコはワナの餌を代えている作業中。
これほどの親孝行はない。正直、ずるいと思ったぐらいだ。
親父はどんな気持ちでこれを見ただろう。
夜は満点の星空である。月は半月、ややまぶしい。小屋の影に入り星を眺める。
今回は夜、冷えるだろうとダウンジャケットを持ってきた。まるで寝袋を着ているようなものだ。これなら何時間でも外にいられる。
山小屋の管理人のリチャードが外にでてきて言葉を交わす。自分がトレッキングガイドだと告げると、会話はすぐにローカル同士の一歩踏み込んだ話になる。
これが一般の人との会話だと、ミルフォードトラックはどうだ?とかルートバーンは?などと質問攻めになる。シーズンも終わり近くになると管理人もそういった初歩手的な質問にあきあきすることだろう。
「あの日本人のおじさんは一緒に行動してるのか?」
「いや、たまたまここで出会った。あのおじさんはポスターに写ってる娘の父親だよ。ミホコはあったことはあるか?以前はテアナウ・ドックで働いていたんだけど」
「いや、オレはここは1年目だから知らないな」
「じゃあ、シンジはどうだ?知ってるだろ」
山友トーマスは僕らの身内ではトーマスだが、それ以外ではシンジで通っている。というよりもともとがシンジなのだ。
「おお、シンジか、よく無線で声を聞いているよ。今はマーチソンに入っているはずだ。うらやましい野郎だぜ」
「そのクソうらやましい野郎の義理の父親があのおじさんだよ」
月の明かりで山々がくっきりと浮かび上がる。半月でこれなんだから、満月だったらすごいだろう。
以前、満月の晩を狙って山に登りに行く、と言ってた友達がいたが、そのとおりだ。ただし生活をしていると、そうそうお月様に日程を合わせられるものでもない。
星が大きい、と言っていたミホコ父はどうやら寝てしまったようだ。
続