あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

ケプラー日記  1

2009-07-13 | 
ニュージーランドにはグレートウォークと呼ばれる山歩きのコースがある。
日本の百名山ほど多くはないが、ニュージーランドで山歩きをするならここでしょう、というようなコースが全部で9つある。どれも3~4日かけて山小屋やテントに泊まりながら歩くコースだ。
そのうちの一つはカヌーによる川下りで5日ぐらいかけながら川を下る。これもいつかはやってやろうと思っている。
一番有名なのは、なんてったってミルフォードトラック。誰が言い出したか知らないが『世界一美しい散歩道』なんて名前がついてしまったものだから、ニュージーランドの山歩きイコール、ミルフォードトラックと思っている人もいる。僕個人としては、ミルフォードがこの国の山歩きの全てだと思われるのがしゃくにさわるが、知名度とはそういうものなのだろう。
湖のはずれからU字谷をさかのぼり奥で峠を越え、別のU字谷の谷底を歩いていくと氷河で削られた入り江に抜ける。たしかにドラマチックだ。
次いでルートバーン。こちらは大きな斜面をトラバースして峠を越え、谷の中へ入っていく。山岳展望が素晴らしい。個人的にはこっちの方が好きだ。
その他、海岸線を歩くエイベルタスマン、スチュアート島を歩くラキウラトラックやヒーフィートラック、北島にも2つほどあるが、僕はまだ歩いていない。
そんなグレートウォーク、『偉大な歩き』の一つのケプラートラックを歩くチャンスが来た。これもずーっと、やることリストに入っていた事の一つである。
ケプラーはテアナウから出てループを作る尾根歩きのコースだ。景色が良いと人は言う。写真は見たことがある。テアナウ湖が一望できるようだ。

ボクが勝手にテアナウベースと呼んでいるトキちゃんの家に立ち寄る。
トキちゃんはテアナウが気に入って住んでしまった人で、最近二人目の子が生まれ二児のママになった。旦那のリチャードもトレッキングガイドで、居心地の良い古い家に家族4人で住んでいる。
僕はテアナウに行く仕事でもちょっとしたヒマがあると必ず立ち寄り、息子のジョシュと遊びながらお茶とかコーヒーとかごちそうになる。車をおかせてもらう時もあり、泊めてもらうこともある。まさにテアナウベース、基地なのである。
このテアナウベースという呼び方だって、初めて家に行き、出会った30分後にすっかり意気投合して、初対面だというのに馴れ馴れしく
「トキちゃんよお、この家すっかり気に入ったぜ。オレのテアナウベースにしていいか?」
「いいよ、いいよ、どんどん使って」
ということでその時からテアナウベースになった。
「やあ、トキちゃん、こんちは。元気かい?今からケプラーに行ってくるよ」
「あら~、いいわねえ。あたし実はラックスモアへ登ったことがないのよ」
「え~?こんな近くに住んでいて?」
「そうなのよ」
 テアナウベースの庭からラックスモアがよく見える。
「まあオレも富士山に登ったこともないしね」
「今回は1人?」
「そう。トーマスの携帯に電話かけたけど、留守電になっちゃうからどこか山に入っているんでしょ」
「そう言っていたわ。明日か明後日ぐらいに出てくるって」
「まあ、そういうわけで今回は1人さ。気ままな一人旅を楽しんでくるよ」
「気をつけていってらっしゃい」
「じゃあな、ジョシュ。また会おうぜ」
2歳の息子が嬉しそうに手を振った。彼の笑顔は素晴らしく可愛い。子は親の鏡だ。
旦那のリチャードが休みだったので、僕は車をトラック出口のレインボーリーチに置き、出発点のコントロールゲートまで送ってもらった。
ケプラーはループと言っても出入り口が2つあり、最後の区間はパスできる。もちろんがんばれば出発点まで歩きループを完成させることができるが、トーマスの話だとその区間はわりと単調であまり面白くないらしい。こういう忠告は素直に従ったほうが良い。

テアナウ湖の流れ出しにコントロールゲートと呼ばれる堰があり、その上を歩きワイアウ川を越える。ここからフィヨルドランド国立公園に入る。
僕は数年前にトーマスと一緒に途中まで歩いたことがある。その時は、今は使われなくなった旧道で、やぶをこぎながら急な坂を登った記憶がある
トラックは湖岸沿いに平坦な道である。ブナの森に木漏れ日が差し込み下の苔を照らす。道の上には細かいブナの葉っぱが敷きつまり、快適な森歩きだ。
チチ、チチ。聞き慣れたさえずりと共に鳥がやってきた。ファンテイルだ。日本語で『扇の尻尾』の名の通り、尻尾が扇子のように広がる。その尻尾でバランスを取り、8の字だったり円を描いたりとても複雑な飛び方をする。
別のガイドが、この鳥が尻尾で虫をパシッと叩いて食べるところを見たそうだ。できることなら飼い慣らしてトレッキングに連れて歩き、休憩する時にうじゃうじゃ集まってくるサンドフライを片っ端から食ってもらいたいものだ。
平坦な道をのんびり歩いていても植生は変わる。まず膝の丈ぐらいのシダの間にポンガと呼ばれる木のシダが現れる。
さらに進むとリムがでてきた。ボクがこの国で一番好きな木だ。
ボクが普段いる場所にこの木はない。だからこうやってこの木に出会えると、別の場所に来た実感がわく。
古い木の木肌はボロボロとめくれ曲線の模様が浮き出る。若木は細いスギのような葉が長くたれ下がる。この葉っぱを触るのも好きだ。
「やあやあ、リム君、君に会えてうれしいよ」
僕はリムに話しかけながら歩く。木漏れ日は淡く優しく僕とリムを包み、鳥の声が森にこだまする。僕は今、幸せだ。
そうしているうちにブロッドベイのキャンプサイトに着いた。ここでランチストップ。ランチのメニューはハムチーズきゅうりサンド。このランチメニューは明後日まで続く。
湖を見ながらサンドイッチをほおばっていると、サンドフライ達がうれしそうに集まってきた。
歩いていると気にならないこの虫も、休憩しようとするとワラワラと寄ってくる。
クマもヘビもいないこの国で唯一人間に危害を与えるのがこの虫だ。
それでも救いなのは皮膚が露出しているところしか刺さないこと。南米アマゾンを旅した時には、服の上からブスブスと蚊に刺されたが、それに比べればかわいいものである。

楽ができるのもここまで、ここから道は上り坂となる。テアナウ湖の標高200mから今晩泊まるラックスモア・ハットまで800mの高度差である。
道は急すぎずダラダラと登る。重い荷物を持った身には適度なこう配だ。
登りはじめるとポンガは姿を消しクラウンファーンが地上を覆い、ブナの森のところどころにリムなどの針葉樹がまっすぐ立つ。
トラックのすぐ脇に大きなリムを見る。止まって木の肌を触ってみたかったが、男女2人連れのカップルがそこで休憩をとっていた。そのカップルのわきで木をなぜて「グフフフ」などと笑い出したらさぞかし気持ち悪かろう、と思いそのまま通過。あのリムよ、次回は君の所で休むからそれまで待っていてくれたまえ。
なおも登っていくと、いつのまにかリムは姿を消しブナの森になっていく。視界は開けずもくもくと登る。
どこかでちょっと休もうかな、と思った頃、大きな木が倒れたのだろう、森が一部切れその向こうに湖が見えた。ここで休憩。
道の脇の倒木の中に使用済みティッシュ発見。
「誰だよ、こんな所に捨てていくヤツは」
僕は一人毒づいた。ここへ来るまでだってすでに2つ3つのゴミは拾っていた。それらは菓子の包み紙で、そのままポケットに入れて持ってきたのだ。それらを拾う度に『これがここに落ちているのは誰かが捨てたんじゃない。たまたまその人のポケットから落ちちゃっただけさ。』と自分をなぐさめながら拾ってきた。
だがこのティッシュは明かにここに捨ててあった。全くもう。
かといって誰かのおしっこのついたティッシュをこの先3日間も持ち歩く義理もないだろう。同じ状況でもうすぐ出口というならば、僕はたぶん持って帰るだろう。ティッシュがすごおく汚れていたら、それはその時に考える。
僕はその辺で立ちションをしながら考えた。
男の立ちションは簡単だ。男は小便をしてもティッシュを使わない。ブランブランと2,3回振って終わりである。ムダが無い。ゴミが出ない。
これがもし体の構造上、紙を使って拭かなければならないようなら、地球上のゴミはとんでもない量になっているだろう。
がさつな男にふさわしい排出物の出し方を創造主は与えてくれた。それと同時に立ちションの快感も与えてくれた。なんといっても気持ちいいのだ。
こんな事を書くと、世の女性達はヤーネと眉をひそめるが仕方がない。立ちションは男の特権である。
男なら誰だって、坂本龍馬だって織田信長だってナポレオンだって立ちションをやってきた。この場合の立ちションは立ってするおしっこという意味ではなく、トイレ以外のその辺でチョイとする立ちションである。
坂本龍馬などは親友の武市半平太の家から帰る時、必ず門の所で立ちションをして、武市の妻が臭いとこぼしたと言う。武市も「龍馬はそのうちでっかいことをするやつだから好きにさせておけ」と言ったそうな。
まあこうなると、その辺の気持ち良いところで適当にやる立ちション、というよりもマーキングに近い。犬が電柱でチョイとやるあれだ。
そんな気持ちの良い立ちションを終え、僕は再び歩き始めた。

しばらく行くと上から日本人の女の人が下りてきた。山仲間トーマスの妻ミホコだ。
初めて彼女に会った時、僕は長距離バスの運転手をしていて彼女は乗客だった。短いバスドライバー歴の中でも最悪の酔っぱらい客が彼女の横に座って可哀相だったという記憶がある。当時彼女はワーホリで短い言葉を交わしたが、そんな彼女も数年前にトーマスと結婚して、今や一児の母である。
ミホコは背中に子供を背負いながら歩いてくる。まだ僕だとは気付いていない。
「キオラ!元気かい?」
ミホコは、なんでここに?という顔で目をパチクリさせている。
「あれえ!ひっぢさん。なんでここに?」
ホラね。
「ん、三日ぐらい休みになったから歩きに来たんだよ。」
「実は今日からうちの父が歩き始めるの。今も一緒に森林限界まで行ってきたのよ」
「へえ、お父さんがねえ。一人で?」
「そう、今日はラックスモア、明日はアイリスバーン、明後日はモトゥラウと4日かけて歩くの」
「じゃあ、アイリスバーンまでは一緒だ」
「ひっぢさんが居てくれたら安心だわ。結婚式の時にアロハを着てた人ですって言えばきっと分かると思うわ。面倒みてあげて」
僕は2年前トーマスとミホコの結婚式にアロハシャツで参列した。
「よっしゃ、まかせとけ。ビールも5本もあるしね。今日トーマスは?」
「山に入っているわ。明日出てくるの」
「そうか。今年はトーマスと一緒に歩く機会はなさそうだな。小娘はどうよ?ご機嫌か?」
僕は背負われている娘のほっぺたをつんつんとつついた。
「マキちゃんねえ、今日はずーっと何かしゃべってるの。ごきげんよねえ、マキちゃん」
「そりゃそうだ。自分で苦労して歩くことなくこんな自然のエネルギーたっぷりの所へ来れば、そりゃゴキゲンさ。なあ、オマエの名前は真っ直ぐな樹だもんな。この周りは真っ直ぐな木ばかりでオマエもうれしいだろ」
僕はプクプクのほっぺたをつついた。娘がニカッと笑った。
「あたしも家から出てきて良かったわ。リフレッシュになるし真樹もうれしそうだし」
「良い事じゃないの。あとは親のがんばり次第だからね。これからどんどん重たくなっていくんだから」
僕は娘に言った。
「オマエもこうやって楽に山に来られるのも一生のうちで今だけだからな。あと数年たったら自分で歩かなきゃならなくなるんだぞ。それまで母ちゃんにせがんで連れてきてもらいなさい」
娘が再びニカッと笑う。
「じゃあひっぢさん、気をつけて。くれぐれもお父さんをよろしく。もうすぐ森林限界だからがんばって」
「おう、ありがとう。また会おうぜ」
ミホコとわかれようとした時、上から若い日本人の女の子3人が下りてきた。山用のジャケットに身を包み、ストックを両手にすたすたと歩いてくる。
「わあ、赤ん坊だ。かわいい!」
彼女たちの目は生き生きと輝き、ニュージーランドの山を楽しんでいるのが良く分かる。
こういう娘たちと一緒に歩いたらずいぶん華やかだろうな。おじさんくさい考えをその場に置き、僕は再び歩き始めた。

まもなく大きな石灰岩の崖が現れる。トラックは岩の下をかすめるように続く。こういう変化があるとうれしい。
僕は立ち止まり、岩に手をあてた。ひんやりした感触の奥に大きな岩のエネルギーが伝わる。
「でっかいなあ」
一人つぶやき、さらに進む。
トラックはよく整備され、楽々と岩の上の台に乗り上げる。
ここまで来ると植生も変わる。同じブナでも標高の高い所に生える山ブナになり、木々は低く森林限界が近いのが分かる。どの木からもサルオガセがぶら下がり、風にそわそわとゆれている。幻想的な世界だ。
そしてカーテンを開くように森を抜けた。
そこは明らかに違う世界だ。空は青く澄み渡り視界を遮る物はない。見上げるような角度ではなく、やや上ぐらいにマウント・ラックスモアが見える。
道の脇に小さな看板。ラックスモア・ハット45分。
日はまだ高く、急ぐ必要は全くない。しばらく進み、見晴らしの良い岩の所にザックを置き、岩の上に腰をおろした。
眼下にはテアナウ湖が蒼い水を満々とため、その向こうは牧場が広がり、大地は遠い山へ続く
空はニュージーランド特有の少し白がかかった青。青というより空色という言葉が似合う。そんな青である。
辺りはタソック、膝の丈ぐらいの稲科の植物のうす茶色の葉が風に揺れる。ところどころにリンドウの白い花が混じる。もう秋だ。花の季節もまもなく終わる。
僕は深い感謝の心を持ちながら、この瞬間を楽しんだ。自分が身を置くこの状況を味わい、かみしめ、一瞬一瞬を深く、深く、深く感じ取る。
大地のエネルギー、そして空のエネルギーが自分の中で溶け合う。手はビリビリとしびれ、大きな明るい光が僕を包む。
僕はこの瞬間、幸せである。この幸せは永遠に続く。
たとえ自分がこの場から離れ、街に戻って行っても、時間空間が変わろうとも、この感覚は永遠の物なのだ。
ルートバーンを一緒に歩いたお客さんが言っていた。この森に身を浸した喜びはこれからの生活の支えになるだろう。自分は都会の団地に住んではいるが、地球の裏側にああいう森が存在し、そこに一度とはいえ身を置いた感覚は決して忘れないだろう。身は日本にいても心はいつでもルートバーンに戻って来られるんだから。
お客さんから学ぶことも少なくない。

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