あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

期待しない。

2010-11-14 | 日記
ここ数年とかく人がよく見える。
人の話を聞いているだけで、その人達の間でどういうエネルギーの動きがあるのかが分かってしまう。
この人は何故、こんな行動、発言をするのか分かってしまう。
ある人の行動、立ち振る舞いを見て、その人の生い立ちや家庭状況さえも分かる時もある。
自分が一番見えないが、自分を見ようとすることでさらに他人がよく見える。
たまに見えすぎてイヤになることもある。
自分が好きな人の、本人が気付いていない欠点なども見えてしまう時もあるからだ。
指摘をすればその人が傷つくので言わないようにしている。

人間は誰しもエネルギーを持っている。高い人もいれば低い人もいる。
人のエネルギーは高い方から低い方へと流れる。
その場合、奪うやり方と分け与えるやり方がある。
奪う人はエネルギーを他の人へ廻さない。自分で独占しようとする。ありったけのエネルギーを奪おうとする。
奪われた人はとても疲れる。
場にはギスギスした雰囲気が流れ、良い状態とはとても言えない。
奪い方にもいろいろあり、暴力、威圧、無視、依存などなど。
もう一方はエネルギーを分け与える方。
場の雰囲気は和み、エネルギーは人から人へ、さらにその先の人へと繋がる。
2人ならエネルギーの交流であり、3人以上なら輪となる。
人間のごたごたは全てエネルギーの奪い合いである。
本来なら自然からありあまるエネルギーをもらい人間は幸せになれるのだが、自然からエネルギーをもらうやり方を忘れてしまうと、人から奪うことになる。
人間とは人がよく見えるが、自分自身は見えにくい物だ。
エネルギーを奪う人は無意識のうちにそれをやっている。
さらに人間とは本質をズバリと言われると傷つく。
傷つくと怒るか落ち込む。
エネルギーを奪っている人に「あなたはそうやってエネルギーを奪っていますよ」と言ったところでどうにもならない。
そう言われて「ああ、そうか」と思うぐらいなら最初から人のエネルギーを奪わない。
それは他人に指摘されて気付くものではなく、自分自身を客観的に見ることにより気が付くものだ。

僕は人に期待をしない。
期待をすれば、してくれなかった時に傷つくのは自分だ。
この人はこうすればもっと良くなるのに、という想いも期待である。
そんなのは大きなお世話であり、全てはその人次第なのだ。
やる時はやる。やらないときはやらない。
全ての行動とは各自が決めるものである。
なのでボクは他人にこうしたほうがいいよとか、こうすればいいじゃんとは言わない。
「この映画、面白かったよ」は良いが「この映画、見た方がいいよ」は嫌だ。
見るかどうかは自分が決める。
人に期待をしない。
期待をする、しない。さらに相手がそれをする、しない、で4通りのシナリオができる。
人に何か物事を期待してやってくれなかったらがっかりする。
期待しなければ、やってくれなくてもがっかりしない。
相手がそうしてくれた時、期待していれば当たり前という想いが産まれる。感謝はない。
期待しないで相手がしてくれれば、ありがとうという感謝の心が産まれる。
どれがいいか一目瞭然でしょう?
故にボクは人に期待しない。
人に「こうした方がいいよ」とは言わないが、たまに「こうしなさい」とは言う。
「オイ、深雪、メシ食う前には手を洗え」
オヤジは健在である。

先日、お客さんにチップを頂いた。
そのお客さんはルートバーンで最高の一日を過ごし、僕の話を喜んで聞いてくれて、この人たちと出会ったのは偶然ではないな、というような心のつながりができた。
その1日の終わりに「これでビールでも飲んでください」とビール代にはありあまるほどのチップを頂いた。
こういう時に僕は遠慮をしない。ありがたくいただき、仕事が終ってから美味しいビールを飲む。
なんと言ってもお客さんが喜んでくれて、自分が納得の行く仕事が出来たあとのビールはウマイのだ。
チップとはその仕事に対するお客さんからの感謝の現れである。
ニュージーランドにはチップのシステムはもともとない。
チップがなくてもやっていけるぐらいの給料のシステムがある。
アメリカのように、どんな時でもチップを強制されるような国へは行きたくない。
チップとはあくまでサービスに納得して払うものであり、感謝の心である。
チップを見込んで給料が安い、というのはシステムとしておかしい。そもそも感謝の気持ちを義務付けるところに矛盾がある。なぜ物事を複雑化させるのだろう。
どの仕事でもプロならばチップがあろうとなかろうときちんと仕事をする。
その上にお客さんから感謝の気持ちでチップがあるのだ。
ニュージーランドにはもともとチップのシステムがない。
サービスをうけてチップをあげなくても、その人が不機嫌になることはない。
ぼくはニュージーランドに長くいるがチップをあげたことはない。お金はあげないがサービスを受けたときにはありがとうと言う。
だが最近、アメリカやヨーロッパからのツアーも増えてバスドライバーやガイドもチップをもらう機会が増えた。
たぶんレストランでもアメリカのお客さんはチップを弾むのだろう。
ぼくらも個人からチップをもらうことは稀だが、ツアーの添乗員からチップを貰うことはある。
お金を貰えばうれしい。当たり前の感情だ。お金をもらって悲しいとか悔しいという人はいないだろう。
だがそうなると、同じ仕事をしてもアメリカ人はチップをくれるが他の国の人はくれない、それならアメリカ人のツアーだけやりたいという思いが生まれることもあるだろう。
仕事をした後もチップをもらえなければ「なんだ、今回はチップは無しか」というネガティブな感情も生まれることもあろう。
仕事をして正当な報酬を頂く喜びを忘れ、チップをもらえないというところに意識が向いてしまう。
本末転倒だ。

僕はチップを期待しない。
チップを期待して、もらわなければがっかりする。
チップを期待して、もらえば当然である。そこに感謝はない。
チップを期待しないで、もらわなければ何も起こらない。チップをもらわなくてもやっていける給料のシステムがもともとある。
チップを期待しないで、もらえば純粋に嬉しい。そこには感謝の気持ちがあり、その後のビールがうまい。
期待をしない、とはこういうことだと思う。
こうして自分自身の考えを分析することにより、人がまた見えることになる。
人の悪いところも見えるが、良いところだって見える。
悪い点は本人の気付きに任せ、良い点を伸ばす方向に意識を向けるよう心がける。
なんと言っても、影よりも日向の方が何倍も広いのだから。



コメント (1)
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