あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

美味いもの

2012-04-01 | 
ツアーからツアーへという仕事が一段落して、庭仕事をする時間ができた。
夏の間に育った野菜を収穫する。
ゴボウを植えたのは初めてだが今年は二株育った。
その大きな葉を茂らせたゴボウを掘り起こした。
根は太く直径5cmぐらいはあろうか。そこからいくつもの根が枝分かれしている。
これは食べ応えがありそうだ。
泥を落とし、深雪のお友達の家にもおすそ分け。
食べ物でも何でもそうだが、奪い合えば足りなくなる。分け合えば有り余る。
泥を落としたゴボウは庭のニンジンと一緒にきんぴらごぼうに。絶品である。

今日のメインはサーモンである。
この前のツアーの帰りに一匹買ってきた。
いつもなら刺身と照り焼きと汁物で食べるのだが、今回は趣向を変えてみた。
まず魚をおろし頭や尻尾などのあらで昆布と一緒にダシを取る。
ダシを取ったあらは、身をはずして犬のごちそうに。灰汁もすくって犬のごはんに混ぜてしまう。
犬を飼い始めてからムダが全く無くなった。一匹の魚が我が家では跡形も無くきれいになくなってしまう。なんかうれしい。
そこに庭のごぼうとにんじん、大根を入れて煮る。
根っこの野菜が煮えた頃、庭からシルバービートと太ネギを取ってきて入れる。
野菜が煮えたらほぐした鮭の身と豆腐を入れ、味付けはネルソン産の味噌。
野菜たっぷり、具沢山の味噌汁ができあがる。
ここまではいつもと同じだが今回は半身を干物にしてみた。
きれいにおろした半身に塩をたっぷりまぶす。
塩はブレナムの塩田からとれた天然塩である。
これを天日で干すこと数時間。
それをフライパンで焼く。
七輪で炭火で焼けば究極の鮭の塩焼きができるのが分かってはいるが今日は普通にフライパンで焼く。
皮はパリッと身はジューシーに。焼きすぎないように気をつけて塩焼きができあがった。
それを大根おろしでいただきます。

土鍋で炊いたご飯。野菜たっぷりの味噌汁。鮭の塩焼き。きんぴらごぼう。
全てが旨く、全てが完璧である。バランスも良い。
あまりに美味いので食いすぎに注意である。
ご飯はふっくら炊け、一粒一粒が立っている。
味噌汁は鮭と昆布のだしが効き、野菜の甘みに味噌のしょっぱさと麹の旨みが絶妙のバランスだ。
きんぴらごぼうは、ごぼう特有の泥臭さがなくにんじんの甘みが絡み、甘辛ソースに唐辛子がピリッと決まった。
鮭の塩焼きは言わずとも知れたこと。
太陽の光が魚の旨みを増すのか。普段とは違う旨さがある。

太陽の光というのは全てのエネルギーの源である。
日本語でもお日様、お天道様と呼ぶ。
人だって、動物だって、魚だって、野菜だって、太陽なくしては育たない。
だが地球がもう少し太陽に近かったら暑すぎて生き物は住めないし、遠かったら寒くてダメだ。
その絶妙なバランスの上にこの惑星はある。
そのバランスにそった太陽の力を借りて、美味い物を作る。
以前読んだ本で、鯵の干物の話があった。
最近では干物を作るのに工場内で熱風を送り乾燥させるんだそうな。その過程では干物は太陽の陽にさらされない。
昔ながらに天日で作った干物と工場で作った干物のどちらが美味いか、という話だった。
ボクが育った静岡県の清水という町は港町で、近所に魚屋がいくつもあった。
学校へ行く途中にも魚屋はあり、道路脇で鯵や秋刀魚を干していた。
手間はかかるが、太陽光というそこにあるエネルギーで食べ物を作る。エコである。
太陽の光というものは何か食べ物を美味しくするものがあると思う。
今度は本格的に干物を作ってみようかな。

太陽の光という天の恵み。
魚、そして野菜という大地の恵み。
僕ら人間の命というのは数々の命に支えられている。
それらの死の上に僕たちの生はある。
ムダにしない。
これは大前提なのだが、その上で食べ物の旨みを最大に引き出す工夫、努力を惜しまない。
これは茶の心に通じるものだし、禅の教えにも通ずると思う。
全ての宗教の根底は同じ。それが愛なのだ。
そうやってできたものからは感動を得ることができる。
感動、これを味わうために僕たちは生きる。
良い音楽を聴いたときの感動。
自然の中での感動。
素敵な人と出会ったときの感動。
すばらしい芸術を見たときの感動。
そして旨い食べ物を食べた時の感動。
ついでに旨い酒を飲んだときも感動。
感動とは瞬間の喜びであり、即ちこれが愛である。
これこそが僕たちが生きる原動力であり、この世で生きる理由なのだ。

たかが鮭の塩焼き。
されど鮭の塩焼き。
今日も又、貴重な命を、『いただきます』
コメント (1)
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