これは自分のツアーだ、と思う時がある。
人に任せられない、自分がやるべくしてやる仕事、と感じる時である。
今まで数々の仕事をやってきた。
普通のツアー、スキーのツアー、山歩きのツアー、変わったところでは撮影の仕事、事故で亡くなった人の遺族のアテンド、家族が病気で入院してしまった人のアテンド、はたまた散骨ツアーなんてものもあった。
たくさんあって忘れてしまうものもあるが、印象に残ったものも多い。
たとえそれが普通のツアーだろうが、この人と出会うべくして出会った、という事もあった。
そういう時に『自分の仕事』と感じるのだ。
今回のツアーも間違いなくそれである。
今回は障害を持った人のツアーで、バスもリフト付きの専用車両。
普段は僕はドライバーガイドなのだが、今回はツアーガイドとしてツアーに同行した。
グループは12人、障害の程度もバラバラ。
ゆっくりと歩ける人もいれば、車椅子でもかなり速く動ける人もいる。
電動車椅子の人もいるし、重度の障害で自分では何もできないという人まで様々だ。
こういう仕事は初めてなので、何をどこまでやればいいのか分からず最初は戸惑ったが、ツアーが進むにつれ僕も慣れていった。
ツアーは先ずクィーンズタウンへ飛行機で入り市内観光、ミルフォードサウンド、ワナカを経てマウントクック。そしてテカポを経てクライストチャーチへ。
クライストチャーチでは1日観光、そして飛行機でオークランドへ、というまあこの国の王道コースである。
今までに何十回もやったコースだが、障害を持つ人と一緒だと今まで見えなかった物も見えた。
普段、僕らが普通に歩いているような所でも段差があると車椅子では一苦労だ。
道だって舗装されていればいいが、砂利道ならば車輪が埋まってしまう。
道を渡るのだって健常者なら車が来るタイミングを見計らってささっと渡れるが、車椅子ではそうもいかない。
そういう時に横断歩道の存在はありがたい。ここでは横断歩道は歩行者が絶対的に優先。車は必ず止まる。
周りの人も気軽に手伝ってくれる。
この国では障害者を可哀そうな人と見るのではなく、個性の一つぐらいの感覚で見る。
本人ができることは本人にやらせて、助けが必要な時にだけ手を差し伸べる。
過保護ではない。
障害者を可哀そうな人、と見ればなんとなく後ろめたさを感じて、過保護になんでもやってあげようとなるだろう。
それは本当の愛ではなく、差別する心から来る間違った善意だ。
スピリチュアルな観点から見れば、障害者の方が魂の進化度は高いというのは定説である。
だが今の社会では目に見える物が全てなので、障害者=可哀そうな人となってしまう。
こんなことを書くのもツアーの途中でイヤなことがあったからだ。
あるホテルでグループが出発を待っていたら、裕福そうなアメリカ人が声をかけてきた。
そいつは重度の障害を持つ人を見て、耳障りなアメリカ英語で「悲しい、可哀そう」とくり返すのだ。
口では悲しいなどと言うけれど、僕にはそいつの差別する心が見えてしまう。
あげくの果てに「なんで彼女はこういことになったのだ」などと僕に聞いてくる始末だ。
その人にどんな過去があるのか僕は知らないし、知ろうともしない。過去は過ぎ去ったものだ。
僕がその人の過去を知ったところでその人の体が良くなるわけではない。
それよりも、今ここにその人がいて旅を楽しんでいる。それを盛り上げてあげることが自分のやることである。
「そんなことを言うのは、お前の心に影があるからだ。確かに彼女は体が不自由だが悲しいどうかは誰にも分からないだろう。お前は金持ちで五体満足だが、俺から見ればお前の方がよっぽど哀れだ。分かったらさっさと国へ帰って二度と俺の前に姿を現すな、このバカ!」
などと言いたいところだったが、僕は一言「知らん」と言ってそいつから離れた。
こういうヤツを相手にするだけでエネルギーが下がる。
『陰と陽』『光と影』はどこにでもあるが、グループの存在は明るい光そのもの。
各自が出来ることをやり、旅を楽しむ。
愛に基づいた集団は全てが上手くいく。
天気さえも見方してくれる。
ミルフォードでもマウントクックでもテカポでも快晴。
全員ミルフォードからの帰りは飛行機で帰ってきた。
僕も空からの景色を堪能して、お客さんも皆喜んでくれた。
お客さんが楽しむと同時に自分も楽しむ。
正直、今回の仕事は楽しかった。
それは体という目に見える物ではなく、心という目に映らないところで旅を楽しむという感覚を共有できたから。
この地を訪れた人と旅を楽しむ、というガイドの原点を再確認できた。
それが自分の存在価値であり、この国で僕がやるべきことである。
皆で一緒に食べる食事は美味しく、マウントクックのホテルではチーズをつまみにワインを一緒に飲んだ。
トランツアルパインの新しい車両には車椅子のまま乗り降りできる機械があり、車椅子のまま景色を眺められるスペースもあった。
ギターを出してマオリの歌を歌えば、その場にいたおばちゃんが乗ってきてコーラスになる。
筋書きなしのアドリブライブも愛あればこそ。
バスドライバーも良い人に当たるし、ホテルのスタッフ、レストランのスタッフなど、行くとこ行くとこで純粋な愛から来る善意に出会った。
こういう人達を見ると、ニュージーランドはやっぱり良い国だなあ、などと思うのだ。
この世は公平ではない。
貧富の差はどこにでもあるし、社会的な立場でも上下というものはある。
僕は山登りやスキーをするが、彼らにはそれはできない。全くもって不公平だ。
では、山登りやスキーができないから不幸せなのか?
それも違うだろう。健常者でも山登りもスキーもしないという人はたくさんいる。
何かが無いから不幸せ、何かができないから不幸せ、というのは自分の心が作るもの。
幸せとは常にそこにあるものである。それに気づかない事が不幸せだ。
障害者でもスキーをする人もいるし、以前ルートバーンを車椅子で歩いている人も見た。
急坂では前からロープで車椅子を引っ張り、本人も必死で手で漕ぎ、後ろからもう一人が車椅子を押す。
すごいなあ、とその時に思った。やればなんでもできるのだが、それには人一倍の努力と周りのサポートが必要だ。
そこまでやらなくても、例えば今回はミルフォードから遊覧飛行で帰ってきたのだが、窓からの景色を楽しむのに健常者も障害者もない。
ただしその場合は金が要る。
金に困っている人にはそれができない。全くもって不公平だ。
障害者と一口に言っても、視覚障害もあれば聴覚の障害だってあるし、四肢の障害もある。
程度も様々であれば、そこに行き着く過程も様々だ。
それを個性と見れば、「ふーん、そうか」となるが、平均というラインでしか物事を考えられない人には「自分より下」となるだろう。
はっきり言う。魂の質に上も下もない。
人が生まれて生きる目的は、魂の向上である。
それは人によって違う。
比べる事が間違っているのだ。
彼らを見て思ったのだが、障害を持ちつつもそれを受け止め、前に向う姿。
これはヨガの極意に通ずるものではないかと。
ヨガとはポーズを作り上げることが目的ではなく、たとえそのポーズが出来なくともそこに向かう姿勢が本質である。
今回のグループでは、人によって障害の程度は違えど、旅を楽しむという目的のために各自が出来ることをした。
その姿は美しいものであり、人に元気というエネルギーを与える。
僕も今回、彼らからエネルギーをたっぷりと頂いた。
僕の存在も彼らにエネルギーを与えたはずだ。
気というエネルギーを奪い合うのではなく、互いに与え合う。
競争ではなく共存共栄の世界の雛形がここにあった。
その根底にあるものはやはり愛なのである。
人に任せられない、自分がやるべくしてやる仕事、と感じる時である。
今まで数々の仕事をやってきた。
普通のツアー、スキーのツアー、山歩きのツアー、変わったところでは撮影の仕事、事故で亡くなった人の遺族のアテンド、家族が病気で入院してしまった人のアテンド、はたまた散骨ツアーなんてものもあった。
たくさんあって忘れてしまうものもあるが、印象に残ったものも多い。
たとえそれが普通のツアーだろうが、この人と出会うべくして出会った、という事もあった。
そういう時に『自分の仕事』と感じるのだ。
今回のツアーも間違いなくそれである。
今回は障害を持った人のツアーで、バスもリフト付きの専用車両。
普段は僕はドライバーガイドなのだが、今回はツアーガイドとしてツアーに同行した。
グループは12人、障害の程度もバラバラ。
ゆっくりと歩ける人もいれば、車椅子でもかなり速く動ける人もいる。
電動車椅子の人もいるし、重度の障害で自分では何もできないという人まで様々だ。
こういう仕事は初めてなので、何をどこまでやればいいのか分からず最初は戸惑ったが、ツアーが進むにつれ僕も慣れていった。
ツアーは先ずクィーンズタウンへ飛行機で入り市内観光、ミルフォードサウンド、ワナカを経てマウントクック。そしてテカポを経てクライストチャーチへ。
クライストチャーチでは1日観光、そして飛行機でオークランドへ、というまあこの国の王道コースである。
今までに何十回もやったコースだが、障害を持つ人と一緒だと今まで見えなかった物も見えた。
普段、僕らが普通に歩いているような所でも段差があると車椅子では一苦労だ。
道だって舗装されていればいいが、砂利道ならば車輪が埋まってしまう。
道を渡るのだって健常者なら車が来るタイミングを見計らってささっと渡れるが、車椅子ではそうもいかない。
そういう時に横断歩道の存在はありがたい。ここでは横断歩道は歩行者が絶対的に優先。車は必ず止まる。
周りの人も気軽に手伝ってくれる。
この国では障害者を可哀そうな人と見るのではなく、個性の一つぐらいの感覚で見る。
本人ができることは本人にやらせて、助けが必要な時にだけ手を差し伸べる。
過保護ではない。
障害者を可哀そうな人、と見ればなんとなく後ろめたさを感じて、過保護になんでもやってあげようとなるだろう。
それは本当の愛ではなく、差別する心から来る間違った善意だ。
スピリチュアルな観点から見れば、障害者の方が魂の進化度は高いというのは定説である。
だが今の社会では目に見える物が全てなので、障害者=可哀そうな人となってしまう。
こんなことを書くのもツアーの途中でイヤなことがあったからだ。
あるホテルでグループが出発を待っていたら、裕福そうなアメリカ人が声をかけてきた。
そいつは重度の障害を持つ人を見て、耳障りなアメリカ英語で「悲しい、可哀そう」とくり返すのだ。
口では悲しいなどと言うけれど、僕にはそいつの差別する心が見えてしまう。
あげくの果てに「なんで彼女はこういことになったのだ」などと僕に聞いてくる始末だ。
その人にどんな過去があるのか僕は知らないし、知ろうともしない。過去は過ぎ去ったものだ。
僕がその人の過去を知ったところでその人の体が良くなるわけではない。
それよりも、今ここにその人がいて旅を楽しんでいる。それを盛り上げてあげることが自分のやることである。
「そんなことを言うのは、お前の心に影があるからだ。確かに彼女は体が不自由だが悲しいどうかは誰にも分からないだろう。お前は金持ちで五体満足だが、俺から見ればお前の方がよっぽど哀れだ。分かったらさっさと国へ帰って二度と俺の前に姿を現すな、このバカ!」
などと言いたいところだったが、僕は一言「知らん」と言ってそいつから離れた。
こういうヤツを相手にするだけでエネルギーが下がる。
『陰と陽』『光と影』はどこにでもあるが、グループの存在は明るい光そのもの。
各自が出来ることをやり、旅を楽しむ。
愛に基づいた集団は全てが上手くいく。
天気さえも見方してくれる。
ミルフォードでもマウントクックでもテカポでも快晴。
全員ミルフォードからの帰りは飛行機で帰ってきた。
僕も空からの景色を堪能して、お客さんも皆喜んでくれた。
お客さんが楽しむと同時に自分も楽しむ。
正直、今回の仕事は楽しかった。
それは体という目に見える物ではなく、心という目に映らないところで旅を楽しむという感覚を共有できたから。
この地を訪れた人と旅を楽しむ、というガイドの原点を再確認できた。
それが自分の存在価値であり、この国で僕がやるべきことである。
皆で一緒に食べる食事は美味しく、マウントクックのホテルではチーズをつまみにワインを一緒に飲んだ。
トランツアルパインの新しい車両には車椅子のまま乗り降りできる機械があり、車椅子のまま景色を眺められるスペースもあった。
ギターを出してマオリの歌を歌えば、その場にいたおばちゃんが乗ってきてコーラスになる。
筋書きなしのアドリブライブも愛あればこそ。
バスドライバーも良い人に当たるし、ホテルのスタッフ、レストランのスタッフなど、行くとこ行くとこで純粋な愛から来る善意に出会った。
こういう人達を見ると、ニュージーランドはやっぱり良い国だなあ、などと思うのだ。
この世は公平ではない。
貧富の差はどこにでもあるし、社会的な立場でも上下というものはある。
僕は山登りやスキーをするが、彼らにはそれはできない。全くもって不公平だ。
では、山登りやスキーができないから不幸せなのか?
それも違うだろう。健常者でも山登りもスキーもしないという人はたくさんいる。
何かが無いから不幸せ、何かができないから不幸せ、というのは自分の心が作るもの。
幸せとは常にそこにあるものである。それに気づかない事が不幸せだ。
障害者でもスキーをする人もいるし、以前ルートバーンを車椅子で歩いている人も見た。
急坂では前からロープで車椅子を引っ張り、本人も必死で手で漕ぎ、後ろからもう一人が車椅子を押す。
すごいなあ、とその時に思った。やればなんでもできるのだが、それには人一倍の努力と周りのサポートが必要だ。
そこまでやらなくても、例えば今回はミルフォードから遊覧飛行で帰ってきたのだが、窓からの景色を楽しむのに健常者も障害者もない。
ただしその場合は金が要る。
金に困っている人にはそれができない。全くもって不公平だ。
障害者と一口に言っても、視覚障害もあれば聴覚の障害だってあるし、四肢の障害もある。
程度も様々であれば、そこに行き着く過程も様々だ。
それを個性と見れば、「ふーん、そうか」となるが、平均というラインでしか物事を考えられない人には「自分より下」となるだろう。
はっきり言う。魂の質に上も下もない。
人が生まれて生きる目的は、魂の向上である。
それは人によって違う。
比べる事が間違っているのだ。
彼らを見て思ったのだが、障害を持ちつつもそれを受け止め、前に向う姿。
これはヨガの極意に通ずるものではないかと。
ヨガとはポーズを作り上げることが目的ではなく、たとえそのポーズが出来なくともそこに向かう姿勢が本質である。
今回のグループでは、人によって障害の程度は違えど、旅を楽しむという目的のために各自が出来ることをした。
その姿は美しいものであり、人に元気というエネルギーを与える。
僕も今回、彼らからエネルギーをたっぷりと頂いた。
僕の存在も彼らにエネルギーを与えたはずだ。
気というエネルギーを奪い合うのではなく、互いに与え合う。
競争ではなく共存共栄の世界の雛形がここにあった。
その根底にあるものはやはり愛なのである。