タイトルどおりニワトリを食っちまった話である。
それだけだと一行で終わってしまうが、そこはそれ、あーたいろいろありまして、涙あり笑いありの日常日記の始まり始まり~。
僕は自給自足を目指す生活をしている。
だが今の世の中で完全な自給自足は不可能だ。。
無人島に一人で洞穴に住んで、というならば話は別だがクライストチャーチで人並みの生活をしてとなると自給自足は無理だ。
第一、電気を作れない、ガソリンも作れない、その他もろもろ、何かしら誰かが作ってくれた物を消費して僕らの生活は成り立っている。
でも完全な自給自足は無理でも何かしら自分に出来る事でそこに向かう事はできる。
ここが大切、『自分に出来る事』これは自分自身を見つめる内観の第一歩である。
自分で方向を決めたら行動。とにかくやってみる。
常に行動ありき。
見ているだけでは野菜は育たない。
我が家では野菜はほとんど庭から取れるし、せっけんも作っているし、卵も自家製である。
味噌作りなども自分でやったこともあったが、いかにせん自分の行動には限りがある。
なので味噌は友達が作っている味噌を買わせてもらっている。
他にもやっている事はいろいろあるが、できるだけ自分で作ったものを消費して生活をしようとしているわけだ。
動物性たんぱく質を自分で取りたいなと常々思っていた。
猟銃を持って山へ行きたいが、これ以上趣味を増やすわけにはいかん。
魚を釣るという選択肢もあるが、僕は釣りはヘタクソだ。
近所にいる鴨とかをマオリ式に捕まえて食っちまおうかと真剣に考えたこともあった。
やるならそれよりも身近にいるヤツ、家のニワトリからだろう。
ボスのミカンが殺されて、残ったのは5羽。
最近まで3個卵を産んでいたが今は2個。
5羽のうち、卵を産みそうもない2羽を締めることにした。
ニワトリを絞めるのは初めてではない。
以前飼っていたニワトリが卵を産まなくなったので締めて羽根をむしるところまでやったのだが、どうしても食う気になれずに友達のマサにあげてしまった。
その鶏には名前を付けてしまったのが敗因だ。
教訓 自分が食べる物には名前を付けるべからず。
今回の鶏は名無しだし、買って家に来た時に「いずれお前達を食べます。それまで卵を産んでください」とお願いしてあるので多少気が楽だ。
今回は締めて捌いてそれを調理して食うところまで、全て自分でやってみようと心に決めた。
あたりをつけた2羽を捕まえて、羽根をクロスして縛り足を縛り木にぶら下げる。
最初は首を持ち上げていた鶏も頭に血が回ると首がだらんと下がる。
その頭を掴んで包丁で首元を切るのだが、羽があるし皮が固いので恐る恐るやっていても切れない。
「スマン、オマエ達に罪はないが許しておくれ」
覚悟を決めてエイっと切る。
鶏はほとんど暴れずにたらーっと血を流し静かになった。
僕はその間、手を合わせ拝み、うろ覚えのお経を唱えた。
さっきまで元気だった鶏が僕の一存であの世に行った。
鶏でさえこうなのだからもっと大きな動物を殺す人の心境はどうなのだろう。
ほとんどの人は自分で食べるものを自分で殺すことなく生活をしている。
僕もそうだ。
だがどんな人でも小さな虫なら殺す。
それに植物を簡単に殺す。
植物の死、虫の死、鶏の死、動物の死、そして人間の死にどんな違いがあるのだろう。
僕達の生は数々の生き物の死の上に成り立っている。
全ての人に自分で殺して食え、とは言わない。
だが殺生があり、その上に自分の命があることを忘れてはいけない。
感傷に浸るのもつかの間、作業に入る。
二羽のニワトリを木から下ろし、バケツに熱いお湯を入れそこに漬けて羽根をむしる。
むしる、毟る、ひたすらむしる。
むしるという言葉は、何か小さくて密集しているものを引き抜く作業だな。
草むしりが一般的だが、毛をむしり取るなんてのはちょっと痛そう。
鶏の羽根をむしるのは、あまりやる人は多くないはずだ。
そんな事を考えながら、ひたすら、一心不乱、一生懸命、我武者羅にむしる。押忍。
これを書いて初めて知ったのだが、むしるという字は毟るなのだな。
小さい毛か、ナルホドね。
経験、是すなわち財産。
40半ばでもいろいろな経験をするのは素晴らしいことだと思う。
ここから解体作業である。
鶏の頭と足を切り落とせば、見た目にはもう肉屋で売っている鳥肉と変わらない。
頭と足は火を通して、犬のおやつに。
肛門の周りを切り取り、はらわたを抜き出す。いわゆる中抜き。
そして内臓の処理。
これはあまり気持ちの良い作業ではないがやるしかない。
これも経験。
見よう見まねでやったのでレバーをつぶしてしまったがなんとかできた。
そして二羽めを解体中に思わぬ発見。
なんと内臓から卵のできかけのものがころころとでてきたのだ。
あちゃー、やっちまったか。
この種のニワトリは一度産まなくなると再び産む事はほぼない、と何かで読んだのでてっきりそれだと思って締めてしまったが・・・。
しかも黄身の大きさから言って、あと一日二日で卵になったようなものなのに。
悔やんでも仕方ない、出来かけの卵も全て食おう。
そういえば子供の頃、近所の肉屋で卵のできかけのものとか卵管とかを煮しめて売っていたな。
アレを作るか。
内臓を取り出したら大まかに分ける。
自分が食べる物と食べない物。
自分が食べる場所は、砂肝、レバー、心臓、卵管と卵。
それと別にモツをはじめ、その他どろどろした部分。
モツは開いて中のウンコを洗い流しきれいにして、その他と一緒に茹でて小さく切って生き残った鶏にあげた。
これは人道的に賛否両論あるかもしれないが、この場合は自分が法律である。
僕の考えでは鶏達はすでにあの世へ逝った。
あとはたんぱく質の塊だ。
それを無駄なく使うのが自分のやり方である。
解体作業は続く。
まるの鳥を捌き、手羽、胸肉、腿肉、ガラに分けていく。
この辺までくると普段やっていることなので勝手は分かる。
だが2羽の鳥を捌くのは手間がかかる。
臓物をさばけば臭いし、それを洗ったり、それなりの容器を使って洗ってを繰り返し、とにかく手間はかかる。
2羽の鳥を絞めてから調理に使えるように捌くまで、なんだかんだで1日作業だ。
そうやって考えると店で売っているのを買うのって楽だ。
それにこの労力を考えたら安いと思う。
物を高いと言って嘆くか、安いと思い感謝するか。
僕は後者でありたい。
後編へ続く
それだけだと一行で終わってしまうが、そこはそれ、あーたいろいろありまして、涙あり笑いありの日常日記の始まり始まり~。
僕は自給自足を目指す生活をしている。
だが今の世の中で完全な自給自足は不可能だ。。
無人島に一人で洞穴に住んで、というならば話は別だがクライストチャーチで人並みの生活をしてとなると自給自足は無理だ。
第一、電気を作れない、ガソリンも作れない、その他もろもろ、何かしら誰かが作ってくれた物を消費して僕らの生活は成り立っている。
でも完全な自給自足は無理でも何かしら自分に出来る事でそこに向かう事はできる。
ここが大切、『自分に出来る事』これは自分自身を見つめる内観の第一歩である。
自分で方向を決めたら行動。とにかくやってみる。
常に行動ありき。
見ているだけでは野菜は育たない。
我が家では野菜はほとんど庭から取れるし、せっけんも作っているし、卵も自家製である。
味噌作りなども自分でやったこともあったが、いかにせん自分の行動には限りがある。
なので味噌は友達が作っている味噌を買わせてもらっている。
他にもやっている事はいろいろあるが、できるだけ自分で作ったものを消費して生活をしようとしているわけだ。
動物性たんぱく質を自分で取りたいなと常々思っていた。
猟銃を持って山へ行きたいが、これ以上趣味を増やすわけにはいかん。
魚を釣るという選択肢もあるが、僕は釣りはヘタクソだ。
近所にいる鴨とかをマオリ式に捕まえて食っちまおうかと真剣に考えたこともあった。
やるならそれよりも身近にいるヤツ、家のニワトリからだろう。
ボスのミカンが殺されて、残ったのは5羽。
最近まで3個卵を産んでいたが今は2個。
5羽のうち、卵を産みそうもない2羽を締めることにした。
ニワトリを絞めるのは初めてではない。
以前飼っていたニワトリが卵を産まなくなったので締めて羽根をむしるところまでやったのだが、どうしても食う気になれずに友達のマサにあげてしまった。
その鶏には名前を付けてしまったのが敗因だ。
教訓 自分が食べる物には名前を付けるべからず。
今回の鶏は名無しだし、買って家に来た時に「いずれお前達を食べます。それまで卵を産んでください」とお願いしてあるので多少気が楽だ。
今回は締めて捌いてそれを調理して食うところまで、全て自分でやってみようと心に決めた。
あたりをつけた2羽を捕まえて、羽根をクロスして縛り足を縛り木にぶら下げる。
最初は首を持ち上げていた鶏も頭に血が回ると首がだらんと下がる。
その頭を掴んで包丁で首元を切るのだが、羽があるし皮が固いので恐る恐るやっていても切れない。
「スマン、オマエ達に罪はないが許しておくれ」
覚悟を決めてエイっと切る。
鶏はほとんど暴れずにたらーっと血を流し静かになった。
僕はその間、手を合わせ拝み、うろ覚えのお経を唱えた。
さっきまで元気だった鶏が僕の一存であの世に行った。
鶏でさえこうなのだからもっと大きな動物を殺す人の心境はどうなのだろう。
ほとんどの人は自分で食べるものを自分で殺すことなく生活をしている。
僕もそうだ。
だがどんな人でも小さな虫なら殺す。
それに植物を簡単に殺す。
植物の死、虫の死、鶏の死、動物の死、そして人間の死にどんな違いがあるのだろう。
僕達の生は数々の生き物の死の上に成り立っている。
全ての人に自分で殺して食え、とは言わない。
だが殺生があり、その上に自分の命があることを忘れてはいけない。
感傷に浸るのもつかの間、作業に入る。
二羽のニワトリを木から下ろし、バケツに熱いお湯を入れそこに漬けて羽根をむしる。
むしる、毟る、ひたすらむしる。
むしるという言葉は、何か小さくて密集しているものを引き抜く作業だな。
草むしりが一般的だが、毛をむしり取るなんてのはちょっと痛そう。
鶏の羽根をむしるのは、あまりやる人は多くないはずだ。
そんな事を考えながら、ひたすら、一心不乱、一生懸命、我武者羅にむしる。押忍。
これを書いて初めて知ったのだが、むしるという字は毟るなのだな。
小さい毛か、ナルホドね。
経験、是すなわち財産。
40半ばでもいろいろな経験をするのは素晴らしいことだと思う。
ここから解体作業である。
鶏の頭と足を切り落とせば、見た目にはもう肉屋で売っている鳥肉と変わらない。
頭と足は火を通して、犬のおやつに。
肛門の周りを切り取り、はらわたを抜き出す。いわゆる中抜き。
そして内臓の処理。
これはあまり気持ちの良い作業ではないがやるしかない。
これも経験。
見よう見まねでやったのでレバーをつぶしてしまったがなんとかできた。
そして二羽めを解体中に思わぬ発見。
なんと内臓から卵のできかけのものがころころとでてきたのだ。
あちゃー、やっちまったか。
この種のニワトリは一度産まなくなると再び産む事はほぼない、と何かで読んだのでてっきりそれだと思って締めてしまったが・・・。
しかも黄身の大きさから言って、あと一日二日で卵になったようなものなのに。
悔やんでも仕方ない、出来かけの卵も全て食おう。
そういえば子供の頃、近所の肉屋で卵のできかけのものとか卵管とかを煮しめて売っていたな。
アレを作るか。
内臓を取り出したら大まかに分ける。
自分が食べる物と食べない物。
自分が食べる場所は、砂肝、レバー、心臓、卵管と卵。
それと別にモツをはじめ、その他どろどろした部分。
モツは開いて中のウンコを洗い流しきれいにして、その他と一緒に茹でて小さく切って生き残った鶏にあげた。
これは人道的に賛否両論あるかもしれないが、この場合は自分が法律である。
僕の考えでは鶏達はすでにあの世へ逝った。
あとはたんぱく質の塊だ。
それを無駄なく使うのが自分のやり方である。
解体作業は続く。
まるの鳥を捌き、手羽、胸肉、腿肉、ガラに分けていく。
この辺までくると普段やっていることなので勝手は分かる。
だが2羽の鳥を捌くのは手間がかかる。
臓物をさばけば臭いし、それを洗ったり、それなりの容器を使って洗ってを繰り返し、とにかく手間はかかる。
2羽の鳥を絞めてから調理に使えるように捌くまで、なんだかんだで1日作業だ。
そうやって考えると店で売っているのを買うのって楽だ。
それにこの労力を考えたら安いと思う。
物を高いと言って嘆くか、安いと思い感謝するか。
僕は後者でありたい。
後編へ続く