あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

喫茶古

2014-06-18 | 
今年も実家から新茶が届いた。
♪清水みなとの名物は~ お茶の香りと男伊達。
というぐらい僕の故郷は茶所である。
家の近所にもお茶畑はあったし、お隣さんと筋向いはお茶屋さんだった。
漫画ちびまるこちゃんで、新茶の時季に先生がホームルームで新茶を飲んだ話をするシーンがあり、娘が「お父さんの学校でも先生が話した?」と尋ねた。
「そんなの覚えてねーよ」と身もふたもロマンのかけらもない会話をした。
お茶という物が子供の頃から当たり前にある環境だったのだが、子供の頃にお茶を飲んで感動した思い出はない。
それよりも今こうやって地球の裏側でいただく新茶。
今もお茶を飲みながら書いているのだが、感動がある。
この一杯のお茶に人間の英知が詰まっている。
たかだか木の葉っぱを煎じて飲むだけのことだが、先人の知恵や試行錯誤というものが今のお茶を完成させた。
そしてたかだかお茶を飲むだけのことが日本では道となった。
これが文化というものだと思う。
そしてそれを感じ取るかどうかはその人次第なのである。



家ではお茶も飲むがコーヒーもよく飲む。
我が家ではコーヒーは豆で買ってきて、淹れる直前に豆を砕く。
手でゴリゴリと回すミルがありそれで砕きプランジャーかフィルターで淹れる。
ニュージーランドではエスプレッソマシーンが主流で、どこのカフェでもこれでコーヒーを淹れるのだが、店によっては薄くて不味いコーヒーが出る。
人気のお店はやっぱりコーヒーも美味いし、賞を取るようなバリスタの淹れるコーヒーは美味い。
何故ここまで?というぐらいに不味い店と美味い店で違いがある。
最近は日本人のバリスタが賞をよく取るらしいのだが、何となくそれは分かる気がする。
それは淹れる人の気持ち、心の持ち方ではないか。
お茶やコーヒーを淹れる手順なんてそうそう変わるわけではない。
だがその一杯を美味しく淹れようという気持ちがあれば、本当にちょっとしたところでコツがあるのだろう。
それが決定的な味の差になって現れる。
茶道の真髄はおもてなしの心だ。
たかが一杯の茶を淹れるだけだが、媚を売るのでなく相手を喜ばせようと気遣いをし、自分が手に入れられる最高の物を用意する。
活躍している日本人バリスタは本人が気づいているかどうか知らないが、心の奥に茶の湯の心を持っているのだと思う。



実家から送られてくるお茶は、僕よりも味にうるさい父親が選んだもので、日本では最高級のレベルの物で当然値段も高い。
僕は一番高いお茶から順に飲む。
高い物を勿体ないから取っておこう、というのではない。
高い物だから美味しいものだから新しいうちに飲むのだ。
お茶はある程度は保存が利くが、時間が経てば品質は落ちる。
旨い物を旨い時に飲むのはその物に対する礼儀、そしてそれを作っている人に対しての礼儀だと思う。
よくありがちなのだが、美味しい物をいただき、ありがたさのあまり戸棚の奥に入れてわすれてしまい、賞味期限が切れてしまったり、古くなって香りが飛んでしまったり。
これはどこの家でもあると思う。
日本でもあると思うが、海外に住んでいると日本食が貴重なのでその傾向は著しい。
「普段飲むのに、そんなに良い物はもったいない」という声にはこう返そう。
普段飲むものだから、美味しいものを美味しい時に飲むのであり、毎回毎回、一期一会の心でお茶の味を楽しむのだ。
「お客様が来た時のために取っておきたい」という声には、来るか来ないか分からない人の為に良質の物を無駄にすることはない。
そこに見栄はないか?媚はないか?
来客があれば、その時その場にある最高の物をお出しするのが茶の湯の心である。
その場に最高級のお茶があればそれを出すし、それが無かったら次のランクのお茶を出す。何も無かったら水を出す。
とことんシンプルだ。




喫茶古という禅の言葉がある。
「まあ、お茶でもどうぞ」という意味の言葉だがこういう話だ。
昔の禅僧、趙州和尚の所へ教えを乞いたいと修行僧がやってきた。

和尚 「あなたはここへ来たことがありますか?」
修行僧「はい、あります」
和尚 「喫茶古(さようか、ではお茶でもどうぞ)」

またある時、別の修行僧がやってきた。
和尚 「あなたはここへ来たことがありますか?」
修行僧 「いいえ、ありません」
和尚 「喫茶古(さようか、ではお茶でもどうぞ)」

この様子を見ていたお寺の院主が和尚に尋ねた。
「和尚さんはここへ来たことがある人にも初めて来た人にも『お茶をどうぞ』と同じことを言われますが、何故ですか?」
和尚はその問いに答えず「院主さん!」と呼ぶ。
院主が思わず「はい」と答えたその瞬間、和尚は「喫茶古(まあ、お茶でもどうですか)」

この時、院主ははっと悟ったのだという。
この何故悟ったかというのが禅問答の意図なのだそうだが、解釈はこうだ。
やってきた修行僧そして寺の院主と、立場が違う3人に対して和尚は「喫茶古」とだけ言って接した。
これは和尚の相対する分別、あちらとこちら、過去と現在、自分と相手、そういった全ての分けるという考えを切り離した境地。
そこには富んだ人も貧しい人もなく、男も女もなく、敵味方でなく勝ちも負けもなく、自分も相手もない。
一切の分別が無い、無心の境地からの「喫茶古」なのだと。
今の世の中に必要なワンネスの教えに通ずる物、というかワンネスそのものだな。
僕が自分に課している課題は「相手によって自分の態度を変えない」
誰に対しても無心で真心をもって接して「喫茶古、まあ、お茶でもいかがですか?」と言いたいものだ。



というわけでクライストチャーチ在住の皆さん。
今なら我が家で最高に旨い今年の新茶が味わえます。
ここらで一服いかがでしょう?
時間のある方はご連絡あれ。
「喫茶古」
コメント (3)
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