もう何年も前からだが、近い将来の事が目に浮かぶことがある。
例えば来週やるイベントで、ギターを弾いて歌うことが決まっている。
その時の観客の様子、そして自分が喋る内容、歌う歌、それをした時の場の空気。
そういったことがまるで現実のように、情景が心に浮かぶ。
夢を見ていて起きた瞬間は、すごくリアル感を伴って細部を思い出すことができる。
そんな具合だが夢と違う点は、寝ていないで起きていてそれが見えることだ。
見えるというか心に浮かぶというか、白昼夢という言葉があてはまるのだと思う。
そしてこれまた面白いことに、その時が来ると白昼夢のようにはならない。
あれだけリアルに想像できたことが、現実では違うことになる。
そんなことが何回も繰り返し起こるので、最近ではそれを知りながら白昼夢を楽しんでいる。
この白昼夢に最初に気がついたのはクライストチャーチの大地震の後だった。
地震がありツアーは全てキャンセルになり仕事が完全に無くなった。
その時に見た白昼夢は忘れられない。
地震の後で日本からマスコミが来て、仕事が無くなった現地のガイドをドライバーとして雇った。
僕も数人のグループに雇われ、取材のドライバーをした。
ところがそいつらが無理難題を吹っ掛け、立ち入り禁止の所へ入っていけとか、地震で困っている人達に無神経なインタビューをする。
あまりの傍若無人さに僕はキレた。
「お前ら、いい加減にしろ!この大馬鹿野郎」
そう言い放つと、そいつらを車に乗せたまま、車のキーを抜き取り、奴らを置き去りにして家に帰ってしまった。
その車のキーをポケットに入れた感触まで残るような、生々しい白昼夢だった。
幸いなことにそういうやつらとのご縁は無く、現実でそういった仕事をすることはなかった。
だが後から聞いた話だと、実際に雇われた人達はそうとう嫌な思いをしたらしい。
その時のイメージは強烈で今でも忘れられない。
それから10年という年月が流れた。
時々思い出したように白昼夢が心に浮かび、イメージはイメージのままで実現すること無く、日々の暮らしを送っている。
その白昼夢はパラレルワールドの自分なのではないかと最近は感じる。
この宇宙というものは幾つもの薄い膜の重なりあいから成り立っていて、今僕らの生きている世界もその薄い膜の中にある。
幾つもの膜にはこの世界ととても似ている世界が存在する。
それをパラレルワールドと呼ぶ。
どこぞの偉い学者さんが言っていたことで、僕だけの妄想ではない。
妄想ではないが、それを証明して見せてみろ、と言われてもできない。
まあそんなことはどうでもいいが、そのパラレルワールドの自分を見ているのだと漠然と感じるわけだ。
そして自分の身に起こる現実は予想もできない事が起こる。
白昼夢のような鮮明なイメージではなく、もっと漠然とした、例えば霧の中でイメージがボンヤリ浮かびあがるような感じか。
そのことを忘れた時に降って湧いたように、ある事柄が起こる。
それは大きな社会の変革もそうだし、個人的な身の回りの物事もそうだ。
この予想ができないところで起こる出来事がある、というので人生は面白いなあと思うわけだ。
歴史を勉強して学んだ事だが、全ての物事は当事者の想像がつかない落とし所に行き着くのだろう。
例えばある人がAという事を起こす。
その事によりBという事件になり、それが元でCという結果になる。
何年も時が流れCからDへそしてEが起こりFとなる。
さらに時が流れるとGが生まれHそしてJが起こりKに落ち着く。
歴史とはそういう繰り返しなんだろうと思う。
最初にAを事を起こした人が想像したのはBからCぐらいまでかもしれない。
そのずーっと先のGHJといった事は考えていなかっただろう。
ひょっとするとその人が夢見ていたものはAからΒではなく、AからΩかもしれないし、Aから♬かもしれない。
その事によって本人が考えていたのと全く違う着地点になった、という事が歴史ではよくある。
AからBそしてCへ行く事でその周りにいる人々を救ったが、そのはるか先のSとかTになった時に多くの人を苦しめた。
そんなこともきっとあるだろう。
短期的に見て良いことが長期的には悪となる、もちろんその逆もある。
そういったことを考えると、善悪の判断というのは簡単にはできなくなる。
人から物を奪い殺す、という行為は今の世では悪だが、戦国時代では当たり前の事だ。
とことん大切なのは自分の物差しで人を計らないことだ。
自分の常識は他人の常識ではない。
これはみんな分かっているようで実は分かっていない事が多いぞ。
みんな違ってみんな良い、という言葉が小学校の教科書にも出てくる。
確かにおっしゃる通りだよ、何も間違っていないし、それは真理でもある。
でも本当に分かっているのか?
他人との常識の違いを理解するには、自分を理解しなくてはならない。
それには徹底した内観、自分の内側を見つめることが必要となる。
誰しも自分の内側の嫌な部分から目を背けたいものだが、その嫌な所や暗い闇を照らす覚悟が要る。
自分自身でさえ第三者の目で見る、ゴルゴ13のように。
そうすると他人と自分の関係を俯瞰して見ることができる。
自分と相手の関係とは二人だけの話ではなく、それを取り巻く社会や歴史も含まれる。
それら全てを踏まえた上で、相手の価値観や常識を理解して接する。
こういうことなのだと思う。
また当たり前の話だが、人間とは同意を求めて生きる生き物である。
自分が美味いと思う物を相手が美味いと言えば嬉しい。
自分が赤だと言ってる物を相手が黒だと言えば、「何言ってるんだこいつは」となる。
自分が正しいと思ったことを相手が正しいと思えば嬉しい。
「98%はそうだけどあと2%は違うんんだよなあ。でもこの際それは問題じゃないので同意しようか」
実際はそんな擦り合わせをしながら社会は出来ていくのだと思う。
みんな違ってみんな良し、同意したいされたい、この二つの間を行ったり来たりしながら生きるのが人間なのか。
最初はこんな話を書くつもりじゃなかったんだけどなあ。
自分が想像したのと違う着地点がこれだということでオチにしょう。
例えば来週やるイベントで、ギターを弾いて歌うことが決まっている。
その時の観客の様子、そして自分が喋る内容、歌う歌、それをした時の場の空気。
そういったことがまるで現実のように、情景が心に浮かぶ。
夢を見ていて起きた瞬間は、すごくリアル感を伴って細部を思い出すことができる。
そんな具合だが夢と違う点は、寝ていないで起きていてそれが見えることだ。
見えるというか心に浮かぶというか、白昼夢という言葉があてはまるのだと思う。
そしてこれまた面白いことに、その時が来ると白昼夢のようにはならない。
あれだけリアルに想像できたことが、現実では違うことになる。
そんなことが何回も繰り返し起こるので、最近ではそれを知りながら白昼夢を楽しんでいる。
この白昼夢に最初に気がついたのはクライストチャーチの大地震の後だった。
地震がありツアーは全てキャンセルになり仕事が完全に無くなった。
その時に見た白昼夢は忘れられない。
地震の後で日本からマスコミが来て、仕事が無くなった現地のガイドをドライバーとして雇った。
僕も数人のグループに雇われ、取材のドライバーをした。
ところがそいつらが無理難題を吹っ掛け、立ち入り禁止の所へ入っていけとか、地震で困っている人達に無神経なインタビューをする。
あまりの傍若無人さに僕はキレた。
「お前ら、いい加減にしろ!この大馬鹿野郎」
そう言い放つと、そいつらを車に乗せたまま、車のキーを抜き取り、奴らを置き去りにして家に帰ってしまった。
その車のキーをポケットに入れた感触まで残るような、生々しい白昼夢だった。
幸いなことにそういうやつらとのご縁は無く、現実でそういった仕事をすることはなかった。
だが後から聞いた話だと、実際に雇われた人達はそうとう嫌な思いをしたらしい。
その時のイメージは強烈で今でも忘れられない。
それから10年という年月が流れた。
時々思い出したように白昼夢が心に浮かび、イメージはイメージのままで実現すること無く、日々の暮らしを送っている。
その白昼夢はパラレルワールドの自分なのではないかと最近は感じる。
この宇宙というものは幾つもの薄い膜の重なりあいから成り立っていて、今僕らの生きている世界もその薄い膜の中にある。
幾つもの膜にはこの世界ととても似ている世界が存在する。
それをパラレルワールドと呼ぶ。
どこぞの偉い学者さんが言っていたことで、僕だけの妄想ではない。
妄想ではないが、それを証明して見せてみろ、と言われてもできない。
まあそんなことはどうでもいいが、そのパラレルワールドの自分を見ているのだと漠然と感じるわけだ。
そして自分の身に起こる現実は予想もできない事が起こる。
白昼夢のような鮮明なイメージではなく、もっと漠然とした、例えば霧の中でイメージがボンヤリ浮かびあがるような感じか。
そのことを忘れた時に降って湧いたように、ある事柄が起こる。
それは大きな社会の変革もそうだし、個人的な身の回りの物事もそうだ。
この予想ができないところで起こる出来事がある、というので人生は面白いなあと思うわけだ。
歴史を勉強して学んだ事だが、全ての物事は当事者の想像がつかない落とし所に行き着くのだろう。
例えばある人がAという事を起こす。
その事によりBという事件になり、それが元でCという結果になる。
何年も時が流れCからDへそしてEが起こりFとなる。
さらに時が流れるとGが生まれHそしてJが起こりKに落ち着く。
歴史とはそういう繰り返しなんだろうと思う。
最初にAを事を起こした人が想像したのはBからCぐらいまでかもしれない。
そのずーっと先のGHJといった事は考えていなかっただろう。
ひょっとするとその人が夢見ていたものはAからΒではなく、AからΩかもしれないし、Aから♬かもしれない。
その事によって本人が考えていたのと全く違う着地点になった、という事が歴史ではよくある。
AからBそしてCへ行く事でその周りにいる人々を救ったが、そのはるか先のSとかTになった時に多くの人を苦しめた。
そんなこともきっとあるだろう。
短期的に見て良いことが長期的には悪となる、もちろんその逆もある。
そういったことを考えると、善悪の判断というのは簡単にはできなくなる。
人から物を奪い殺す、という行為は今の世では悪だが、戦国時代では当たり前の事だ。
とことん大切なのは自分の物差しで人を計らないことだ。
自分の常識は他人の常識ではない。
これはみんな分かっているようで実は分かっていない事が多いぞ。
みんな違ってみんな良い、という言葉が小学校の教科書にも出てくる。
確かにおっしゃる通りだよ、何も間違っていないし、それは真理でもある。
でも本当に分かっているのか?
他人との常識の違いを理解するには、自分を理解しなくてはならない。
それには徹底した内観、自分の内側を見つめることが必要となる。
誰しも自分の内側の嫌な部分から目を背けたいものだが、その嫌な所や暗い闇を照らす覚悟が要る。
自分自身でさえ第三者の目で見る、ゴルゴ13のように。
そうすると他人と自分の関係を俯瞰して見ることができる。
自分と相手の関係とは二人だけの話ではなく、それを取り巻く社会や歴史も含まれる。
それら全てを踏まえた上で、相手の価値観や常識を理解して接する。
こういうことなのだと思う。
また当たり前の話だが、人間とは同意を求めて生きる生き物である。
自分が美味いと思う物を相手が美味いと言えば嬉しい。
自分が赤だと言ってる物を相手が黒だと言えば、「何言ってるんだこいつは」となる。
自分が正しいと思ったことを相手が正しいと思えば嬉しい。
「98%はそうだけどあと2%は違うんんだよなあ。でもこの際それは問題じゃないので同意しようか」
実際はそんな擦り合わせをしながら社会は出来ていくのだと思う。
みんな違ってみんな良し、同意したいされたい、この二つの間を行ったり来たりしながら生きるのが人間なのか。
最初はこんな話を書くつもりじゃなかったんだけどなあ。
自分が想像したのと違う着地点がこれだということでオチにしょう。