明照寺の笠塚
俳人・松尾芭蕉は『奥の細道』の影響で東北や北陸の句を多く詠んだイメージがありますが、一番愛した国は私達の住む近江でした。
その芭蕉が詠んだ句に「行く春を 近江の人と 惜しみける」というモノがあります。
この句は、その近江好きを表した代表作で、それを目にした司馬遼太郎に影響を与え、司馬遼太郎すら近江ファンにしてしまったと言うエピソードが残っています。
そして、ライフワークとなる『街道をゆく』が執筆されたのです。
そんな芭蕉が愛しただけあり、近江には多くの門人が居ました、代表的な人物は芭蕉の優れた弟子・芭蕉十哲の一人に挙げられる彦根藩士・森川許六です。
許六は彦根のあっちこっちでその業績を残している人ですが、この奇妙な名前の由来は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の六つの芸に通じていて、芭蕉から許六と言う名前を与えられたと伝わっています。
また許六以外にも、市内平田町の明照寺・14代目住職・李由も有名です。
芭蕉は1591年秋に大津から江戸に向かう途中で明照寺に立ち寄りました。
この時、近くの農家を眺めて芭蕉が詠んだのが
「稲こきの 姥(うば)もめでたし 菊の花」
という句です、菊は長寿の象徴として用いられ、老婆の健康で元気な姿を微笑ましく感じる事が出来ますね。
また、明照寺は庭園も有名で、その庭園を見て
「百歳(ももとせ)の 気色(けしき)を庭の 落葉かな」
という句も残っていて、この歌は句碑として残っています。
この句碑は、“笠塚”という名前で紹介されています。これは、芭蕉没後に李由が形見分けとして芭蕉の渋笠を貰いうけ、これを埋めた事を示す物なのですよ。
明照寺は、古い歴史のわりには意外なほど新しい建物を構えたお寺で、広い空間の中で時間が止まった様にも感じられます。
俳人・松尾芭蕉や李由に思いを馳せて一句ひねってみるのもいいかも知れませんね。
俳人・松尾芭蕉は『奥の細道』の影響で東北や北陸の句を多く詠んだイメージがありますが、一番愛した国は私達の住む近江でした。
その芭蕉が詠んだ句に「行く春を 近江の人と 惜しみける」というモノがあります。
この句は、その近江好きを表した代表作で、それを目にした司馬遼太郎に影響を与え、司馬遼太郎すら近江ファンにしてしまったと言うエピソードが残っています。
そして、ライフワークとなる『街道をゆく』が執筆されたのです。
そんな芭蕉が愛しただけあり、近江には多くの門人が居ました、代表的な人物は芭蕉の優れた弟子・芭蕉十哲の一人に挙げられる彦根藩士・森川許六です。
許六は彦根のあっちこっちでその業績を残している人ですが、この奇妙な名前の由来は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の六つの芸に通じていて、芭蕉から許六と言う名前を与えられたと伝わっています。
また許六以外にも、市内平田町の明照寺・14代目住職・李由も有名です。
芭蕉は1591年秋に大津から江戸に向かう途中で明照寺に立ち寄りました。
この時、近くの農家を眺めて芭蕉が詠んだのが
「稲こきの 姥(うば)もめでたし 菊の花」
という句です、菊は長寿の象徴として用いられ、老婆の健康で元気な姿を微笑ましく感じる事が出来ますね。
また、明照寺は庭園も有名で、その庭園を見て
「百歳(ももとせ)の 気色(けしき)を庭の 落葉かな」
という句も残っていて、この歌は句碑として残っています。
この句碑は、“笠塚”という名前で紹介されています。これは、芭蕉没後に李由が形見分けとして芭蕉の渋笠を貰いうけ、これを埋めた事を示す物なのですよ。
明照寺は、古い歴史のわりには意外なほど新しい建物を構えたお寺で、広い空間の中で時間が止まった様にも感じられます。
俳人・松尾芭蕉や李由に思いを馳せて一句ひねってみるのもいいかも知れませんね。