今では埋木舎といえば、井伊直弼とすぐに連想されるくらいに有名な建物ですね。
元々は控屋敷と呼ばれていて、以前築城時の人柱の話を書いた時に菊という女性が保護されていたのも控屋敷でしたよね。
藩主の子どもが住むにしては狭すぎる建物に小さな庭、そしてお城の旧中堀の外にあると言う条件が、嫌が上でも城から隔離された気分をかもし出しています。
直弼は、父・直中が亡くなった17歳から兄・直亮に後継ぎに任命される32歳までの青年時代を300俵という捨扶持を与えられてここで過ごしました。
井伊家では無用な跡目争いで藩内が揉めないように、嫡子以外の子どもは家臣や他家に養子に出す制度がとられていた為に、養子の先が無かった直弼は父が亡くなった後、ここに住むこととなったのです。
その頃は控屋敷と呼ばれて居たのですが、わが身を振り返った直弼が
「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」と詠み、この詩から“埋木舎”と呼ばれるようになったのです。
直弼がここで過ごした15年間に、居合術や茶道では一派を立てる腕となり、禅も名人の域に達します。また国学は長野主膳・蘭学は中川漁村に学び、後に大老に就任した時に大いに役に立ったのです。
さてさて、300俵の捨扶持を与えられた直弼ですが、それはどれくらいだったんでしょうか?
まずこの300俵は年収です。
2.5俵が1石です、1石は1人が1年に食べる米の量で、時代によって変わりますが金1両に相当するそうです。
ですから300俵÷2.5=120石
1両は今のお金で4万円から16万円とバラバラですが、平均10万とするのが普通なので、120石=120両×10万=1200万円
結構多いですよね~
でも、ここから家臣や使用人への給料を払わないといけませんし、藩主の親族としての権威も保たなければいけませんので、実はギリギリの生活だったんですよ
今の私たちは、転職や引っ越しの自由も許されていますが、それも許されない時代に先の事も解からずただ虚しく毎日を過ごす辛さが埋木舎には籠もっているんです。
元々は控屋敷と呼ばれていて、以前築城時の人柱の話を書いた時に菊という女性が保護されていたのも控屋敷でしたよね。
藩主の子どもが住むにしては狭すぎる建物に小さな庭、そしてお城の旧中堀の外にあると言う条件が、嫌が上でも城から隔離された気分をかもし出しています。
直弼は、父・直中が亡くなった17歳から兄・直亮に後継ぎに任命される32歳までの青年時代を300俵という捨扶持を与えられてここで過ごしました。
井伊家では無用な跡目争いで藩内が揉めないように、嫡子以外の子どもは家臣や他家に養子に出す制度がとられていた為に、養子の先が無かった直弼は父が亡くなった後、ここに住むこととなったのです。
その頃は控屋敷と呼ばれて居たのですが、わが身を振り返った直弼が
「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」と詠み、この詩から“埋木舎”と呼ばれるようになったのです。
直弼がここで過ごした15年間に、居合術や茶道では一派を立てる腕となり、禅も名人の域に達します。また国学は長野主膳・蘭学は中川漁村に学び、後に大老に就任した時に大いに役に立ったのです。
さてさて、300俵の捨扶持を与えられた直弼ですが、それはどれくらいだったんでしょうか?
まずこの300俵は年収です。
2.5俵が1石です、1石は1人が1年に食べる米の量で、時代によって変わりますが金1両に相当するそうです。
ですから300俵÷2.5=120石
1両は今のお金で4万円から16万円とバラバラですが、平均10万とするのが普通なので、120石=120両×10万=1200万円
結構多いですよね~
でも、ここから家臣や使用人への給料を払わないといけませんし、藩主の親族としての権威も保たなければいけませんので、実はギリギリの生活だったんですよ
今の私たちは、転職や引っ越しの自由も許されていますが、それも許されない時代に先の事も解からずただ虚しく毎日を過ごす辛さが埋木舎には籠もっているんです。