彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『七夕伝説』

2006年08月09日 | 何の日?
写真は七夕石


8月7日は「月遅れ七夕」と呼ばれています。
(少し日付がずれちゃいましたが・・・)

七夕を始めとする殆んどの年中行事は、太陰暦を中心に考えられたものでした。
そこで、暦が太陰暦から太陽暦に変わる時にこういった行事をどうするか? という事が重大な問題となったのです。
その結果、元旦や桃の節句・端午の節句・七夕など季節よりも日付を重要視されるモノはそのまま同じ日付に行事を行い、お盆のように時期が重要視される行事は1ヶ月遅れることになったのです。
ですから、今は8月15日になっているお盆も昔は7月15日だったんですよ。

ただし、日本の七夕には「稲が開花期に入り、害虫や風災害に気をつけるように」という注意と共に、身を清めて先祖の霊を迎える準備を行う大切な日でもありました。
このため、季節感が合う1ヵ月後の8月7日に七夕まつりを行う地域も増えてきたのです。
彦根市内中心部で8月4日~8日に行われる七夕まつりや、仙台での七夕まつりが今日を中心に行われているのもこういった事情があるんですよ。

ちなみに、彦根の北側の旧近江町と旧米原町の境を流れる天野川には、その名前の示す通り日本の七夕伝説の発祥の地とも言われているお話が残っています。
 
蛭子(ひるこ)神社で発見された『世継縁起之叟』という古文書によると・・・
雄略天皇の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしかわ・わかみやの・おうじ)と仁賢天皇の第二皇女、朝嬬皇女(あさづまの・ひめみこ)は天野川を隔ててそれぞれに仏道の修行を積んでいたのです。そんな二人はいつしか恋に落ちるようになったのでした。
しかし、間柄は叔父と姪(星河稚宮皇子の姉が仁賢天皇の皇后)だったので、会うこともままならないような悲恋だったのです。

その二人の墓が天野川を挟んで残っています。
星河稚宮皇子の墓が米原市の朝妻神社の石塔で彦星塚
朝嬬皇女の墓が近江町世継の蛭子神社の七夕石(朝嬬皇女の墓は元々天野川の上流に円墳の立派な古墳があったのですが、天野川の洪水で流れてしまい、残った自然石をここに祀ったそうです)

ちなみに、男性が七夕石、女性が彦星塚にお参りすると恋が成就すると言われています。
そして上記の『世継神社縁起之叟』には。「七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる…」と書かれているそうです。
結ばれなかった二人は自分達の分まで周囲に幸わせを託してくれるのでしょうか?
ロマンチックな伝説ですね。

管理人も七夕石にお参りしてきましたよ。


でも、こんな伝説に水を指すようですが、『雄略記』という記録には雄略天皇が息子の清寧天皇に遺言として「星河稚宮皇子は悪逆でおまえ(清寧)を害するだろうから、注意するように」と残したと書かれていて、権力をほしいままにした星河稚宮皇子に対して反乱が起きたとも記されています。
恋に悩む皇子と、危険人物としての皇子、果たしてどちらが本当の顔なんでしょうかね?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする