夏の暑い一日、今日は彦根昔話の中から怖いお話をご紹介しましょう。
『清涼寺(せいりょうじ)の七不思議』
「ひぇ~」
静まりかえった清涼寺の境内に、小僧さんの悲鳴が響き渡りました。
「一体何があったんだ!」
「あれは、昨日は入って来た新入りの声だ!」
「墓地の方から声がしたぞ、行ってみよう!」
寺のお坊様や小坊主たちが墓地の方へ走って行くと、墓地の前にある池の側に新入りの小僧さんが腰を抜かして池を指差していました。
「あ、あそこに…、凄い顔の…お、女の人が…」
真っ青な顔で震えながら、言葉を口にするのもやっと、と言いたげな様子の小僧さんを見た一人のお坊様が
「何、池に女が。みんな、すぐにここを離れよう。ワシもここは気味が悪い…」
と、言ったので、みんな池を離れました。
池は、水が赤黒く濁り、風が吹くとさざ波の広がりが見ている者を池の底に引きずり込むような様子だったそうです。
「もう、大丈夫だ」
「あそこに何をしに行ったんだ?」
口々から出る言葉に、小僧さんは答えました。
「はい、池の周りが木の葉で汚れておりましたので、お掃除をしておりました。魚でも泳いでいるのかなぁ?と思い池を覗きましたら髪を振り乱した恐ろしい顔の女がこっちを睨んでいました、あぁ思い出すだけでも身の毛がよだつ…」
すると、年配の一人のお坊様が、
「やっぱりそうか、今は昼間なのに今日は天気が悪いからなぁ」
と、つぶやいたのです。
周りの者は、
「何か知っているんですか?」
と訊ねると、周囲はポツポツと雨が降り出してきました。
「お前たちが怖がるといけないから、何も言わないでいたがこの寺には幾つもの不思議な話がある。小僧が見たのは“血の池”と呼ばれていて、あの池は夜になると恐ろしい顔の女がうつしだされるんじゃ。
この寺は、井伊家のお殿様の菩提寺になっているが、裏の佐和山は豊臣秀吉が太閤さんだった頃に、秀吉の側近・石田三成のお城で、ここは三成の重臣・島左近の屋敷だった場所なんじゃが、関ケ原の戦いで三成が負けて、その二日後から徳川家康が平田山に陣を置いて、佐和山城を攻めた。
その日のうちに負けを悟った三成の父・正継と兄・正澄は、自分達の命と引き換えに城に残る家来や女性達の助命を願って、家康に認められたんじゃが、それを知らなかった田中吉政と小早川秀秋が翌朝に城に討ち入ってしまった。
こうして、佐和山城に居た2,800名余りの兵や女性達は混乱し、殆んどが殺された。
なんとか逃げようとした女性達も、城の前の谷に飛び込んで折り重なって死んだ、しかし、死にきれなかった者達の断末魔の叫びが三日三晩続いたそうじゃ、その谷は“女郎ヶ谷”と呼ばれて、その悲劇を今に伝えておるし、雨の降る日は女性達のむせ泣く声が聞こえるらしい…
そして、ここにも佐和山から流れた血が多く流れ込み、池を真っ赤に染め、本堂前のタブの木も多くの血を吸ったのじゃ
以来、池は女の顔を映し出し、タブの木は夜な夜な女に化けて見せるのじゃ」
年配のお坊様はそう言うと、佐和山の犠牲者の為にお経をあげると、雨はゆっくりと止んだ、女性達の涙雨は一時の安らぎを得たのかもしれません。
JPで彦根駅から米原駅に向かう途中、彦根駅を出発してすぐに彦根城とは反対側に佐和山城の名前を見る事ができます。
この近くには、井伊家に関わる幾つかの建物が並んでいるのが地図の上からでも分かりますね。
まずは、
井伊家の出身地・遠江井伊谷から移築した“龍潭寺”
井伊直弼の兄・直亮が建造し、今、保存の重要性が叫ばれている“井伊神社”
先日ご紹介した彦根の日光と賞された“大洞弁才天”
そして、今回の舞台・“清涼寺”
物語の中で、“血の池”と“娘に化けるタグの木(写真の中の木)”を紹介しましたが、ここには七不思議が残っていますので、あとの5つもご紹介します。
・“左近の南天”…島左近が愛した南天で、これに触れると腹痛を起こす
・“壁の月”…方丈の間は、島左近の居間を移したものといわれるが、壁に月形の影が現れ、寺側もことあるごとに何度も壁を塗りかえたが、一向に消えなかった。
・“唸(うな)り門”…左近の邸の表門だったもので、晩になると風もないのに低く唸り続けたという。なお、この門は安永5(1776)年の大火で消失。
・“洗濯井戸”…清涼寺の上方にある井戸で、左近はこの水で茶道を楽しんだ。この清く澄んだ井戸水を汲んで汚れ物をつけておくと一夜にして真っ白になってしまうと伝わっている
・“黒雲”…関ヶ原の役後、井伊家の家臣が戦利品の虫干しをしていると、突然、黒雲が湧き強風が戦利品をさらっていった。
清涼寺を訪ねると、その境内の広さに驚きます。
勿論、全国でも有名な名刹並の大きさがあるという訳ではありませんが、井伊家が家名の高さを呼び水に全国の高僧を集めた歴史があるために、修行道場としての名が高く、多くの修行僧を保護する建物として大きくなって行ったのかもしれません。
境内を中心に、何とも言い得ない空気の重力をヒシヒシと感じます。表の門をくぐってすぐに目に入るタグの木に恐ろしくも悲しい伝説を見る事は難しいですが、寺とその周囲に残る石田家郎党の悲劇を知るならば、その訴えを聞く事があるのかも知れませんね。
『清涼寺(せいりょうじ)の七不思議』
「ひぇ~」
静まりかえった清涼寺の境内に、小僧さんの悲鳴が響き渡りました。
「一体何があったんだ!」
「あれは、昨日は入って来た新入りの声だ!」
「墓地の方から声がしたぞ、行ってみよう!」
寺のお坊様や小坊主たちが墓地の方へ走って行くと、墓地の前にある池の側に新入りの小僧さんが腰を抜かして池を指差していました。
「あ、あそこに…、凄い顔の…お、女の人が…」
真っ青な顔で震えながら、言葉を口にするのもやっと、と言いたげな様子の小僧さんを見た一人のお坊様が
「何、池に女が。みんな、すぐにここを離れよう。ワシもここは気味が悪い…」
と、言ったので、みんな池を離れました。
池は、水が赤黒く濁り、風が吹くとさざ波の広がりが見ている者を池の底に引きずり込むような様子だったそうです。
「もう、大丈夫だ」
「あそこに何をしに行ったんだ?」
口々から出る言葉に、小僧さんは答えました。
「はい、池の周りが木の葉で汚れておりましたので、お掃除をしておりました。魚でも泳いでいるのかなぁ?と思い池を覗きましたら髪を振り乱した恐ろしい顔の女がこっちを睨んでいました、あぁ思い出すだけでも身の毛がよだつ…」
すると、年配の一人のお坊様が、
「やっぱりそうか、今は昼間なのに今日は天気が悪いからなぁ」
と、つぶやいたのです。
周りの者は、
「何か知っているんですか?」
と訊ねると、周囲はポツポツと雨が降り出してきました。
「お前たちが怖がるといけないから、何も言わないでいたがこの寺には幾つもの不思議な話がある。小僧が見たのは“血の池”と呼ばれていて、あの池は夜になると恐ろしい顔の女がうつしだされるんじゃ。
この寺は、井伊家のお殿様の菩提寺になっているが、裏の佐和山は豊臣秀吉が太閤さんだった頃に、秀吉の側近・石田三成のお城で、ここは三成の重臣・島左近の屋敷だった場所なんじゃが、関ケ原の戦いで三成が負けて、その二日後から徳川家康が平田山に陣を置いて、佐和山城を攻めた。
その日のうちに負けを悟った三成の父・正継と兄・正澄は、自分達の命と引き換えに城に残る家来や女性達の助命を願って、家康に認められたんじゃが、それを知らなかった田中吉政と小早川秀秋が翌朝に城に討ち入ってしまった。
こうして、佐和山城に居た2,800名余りの兵や女性達は混乱し、殆んどが殺された。
なんとか逃げようとした女性達も、城の前の谷に飛び込んで折り重なって死んだ、しかし、死にきれなかった者達の断末魔の叫びが三日三晩続いたそうじゃ、その谷は“女郎ヶ谷”と呼ばれて、その悲劇を今に伝えておるし、雨の降る日は女性達のむせ泣く声が聞こえるらしい…
そして、ここにも佐和山から流れた血が多く流れ込み、池を真っ赤に染め、本堂前のタブの木も多くの血を吸ったのじゃ
以来、池は女の顔を映し出し、タブの木は夜な夜な女に化けて見せるのじゃ」
年配のお坊様はそう言うと、佐和山の犠牲者の為にお経をあげると、雨はゆっくりと止んだ、女性達の涙雨は一時の安らぎを得たのかもしれません。
JPで彦根駅から米原駅に向かう途中、彦根駅を出発してすぐに彦根城とは反対側に佐和山城の名前を見る事ができます。
この近くには、井伊家に関わる幾つかの建物が並んでいるのが地図の上からでも分かりますね。
まずは、
井伊家の出身地・遠江井伊谷から移築した“龍潭寺”
井伊直弼の兄・直亮が建造し、今、保存の重要性が叫ばれている“井伊神社”
先日ご紹介した彦根の日光と賞された“大洞弁才天”
そして、今回の舞台・“清涼寺”
物語の中で、“血の池”と“娘に化けるタグの木(写真の中の木)”を紹介しましたが、ここには七不思議が残っていますので、あとの5つもご紹介します。
・“左近の南天”…島左近が愛した南天で、これに触れると腹痛を起こす
・“壁の月”…方丈の間は、島左近の居間を移したものといわれるが、壁に月形の影が現れ、寺側もことあるごとに何度も壁を塗りかえたが、一向に消えなかった。
・“唸(うな)り門”…左近の邸の表門だったもので、晩になると風もないのに低く唸り続けたという。なお、この門は安永5(1776)年の大火で消失。
・“洗濯井戸”…清涼寺の上方にある井戸で、左近はこの水で茶道を楽しんだ。この清く澄んだ井戸水を汲んで汚れ物をつけておくと一夜にして真っ白になってしまうと伝わっている
・“黒雲”…関ヶ原の役後、井伊家の家臣が戦利品の虫干しをしていると、突然、黒雲が湧き強風が戦利品をさらっていった。
清涼寺を訪ねると、その境内の広さに驚きます。
勿論、全国でも有名な名刹並の大きさがあるという訳ではありませんが、井伊家が家名の高さを呼び水に全国の高僧を集めた歴史があるために、修行道場としての名が高く、多くの修行僧を保護する建物として大きくなって行ったのかもしれません。
境内を中心に、何とも言い得ない空気の重力をヒシヒシと感じます。表の門をくぐってすぐに目に入るタグの木に恐ろしくも悲しい伝説を見る事は難しいですが、寺とその周囲に残る石田家郎党の悲劇を知るならば、その訴えを聞く事があるのかも知れませんね。