彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『近江みちの国講座』江龍喜之さんの講演

2009年02月19日 | 講演
2008年11月27日、28日に横浜関内ホールで行われた『近江みちのくに講座』
その中で元長浜城歴史博物館館長の江竜喜之さんが講演をされましたのでその内容をご紹介します。


『道の国近江―近江路を歩いた人々―』
元長浜城歴史博物館館長:江竜 喜之 さん

今回のテーマは『旅日記に見る 近江路を歩いた人々』という本を2008年5月に発行させていただきましたそれが元で、主催者の方からもこのテーマでと仰っていただいた訳です。
ところが県外の方にこういうお話をする場合に、色んな方々が近江路を何を歩き、何を見たかを申し上げるよりは、その前に近江(滋賀県)の歴史を話した方がいいのではないかと思い、それが膨らみ今日の話もそれが中心になると思います。
また、近江路を歩いた人々にどれだけ時間が取れるか分かりませんが場合によっては本をご覧下さい。

最初に近江国の特色として、明治以前、北海道を省くと近江は日本列島の中心に位置していて長い間都のあった京都に近いということが近江の歴史を形作る上で大きな役割を果たしています。
奈良時代、近江の長官であった藤原武智麻呂は、宇宙の明知だと呼んでいます、しかもその近江の中心に琵琶湖があるという事です。今は琵琶湖は陸上交通を妨げているという見方が多いですが、当時は水上交通が重要でしたので近江を一つに結びつける役割を果たしていたのです。と同時に京・大坂と北陸・東海を結びつける運河の役割も果たしていたのです。琵琶湖があった事も大きな役割を果たしていると私は思います。
皆さん“琵琶湖”なんて名前はどうして出来たのだと思いますか?私も分からないのですが「そりゃ、琵琶の形に似てるから、琵琶湖や」と思ってしまうのですが、ある本によるとこの名前が現れたのは14世紀頃だと言われています。
「14世紀に正確な地図なんかないだろうし、琵琶の形をしていたなんてそう簡単に言えないだろう」と未だに思っているのですが、その本によりますと「琵琶湖の中心にあるのが竹生島でここには弁財天を祀っていますこの弁財天が持っているのが琵琶で、それに似ているから琵琶湖という名前が付いた」と書かれていますが、どこまで本当にそうなんだろうか?疑問に思っています。
ただ17世紀の初め、オランダ商館付きのケンペルという人がオランダ商館と共に長崎から江戸まで旅をして、その記録によると「この湖には固有名詞が無く、ただ“大津の湖”と呼んでいる」と書かれています。ですから少なくとも17世紀の初め(1636年)にケンペルが近江を通過した頃には“琵琶湖”という名前は一般化してなかったのではなかろうか?と思います。

17世紀の末になりまして貝原益軒という有名な学者が旅が好きでたくさんの紀行文を書いていて、その中に「湖の形はよく琵琶に似ているので琵琶湖だ」とこのように書かれています。それで17世紀の末にはそういう意味で一般化してきたのではないか?と思います。

19世紀初め頃にオランダ商館付きの医者であるシーボルトが商館長と一緒に旅をしていて、琵琶湖の景色を見て「非常に綺麗だ」と言っています、その文章によりますと「近江の湖はこれを“琵琶湖”と呼ばれている」とはっきり琵琶湖と書かれています。ですから19世紀の初めには琵琶湖が一般化しているようですが14世紀に本当に琵琶湖という名前があったかどうかは疑問です。

“近江”の語源についても少しお話をしますと、これも琵琶湖に関わります。
京都のお公家さんが旅をする時に、まず近くに目にするのが琵琶湖で、ずっと行くと遠江の浜名湖です。「近くの湖=近つ淡海」の“近つ”が取れ“淡海(あわうみ)”が近江になったのではないかと言われています。
“近江”とかいて“おうみ”とはなかなか読めませんが、私は近江という言葉は好きでありまして。これは余談ですが明治になって廃藩置県となった時、昔の国の名前は付けていませんが今でも国の名前は大切にされておりまして滋賀県では近江という言葉がよく使われます。滋賀県の肉は旨いですが、これは“近江牛”で“滋賀牛”ではありません、米も旨いんですが“近江米”です“滋賀米”とはあまり言いません。
こん事を考えていたら、平成16年1月1日、長野の田中知事が「長野は信州の北の方だけだから良くない、“信州県”にしたい」と仰っておられました、これを見て「滋賀県も近江にならんかな」と思ったものですが、県の名前を変えるのはそう簡単にいくものではなく田中知事の提案は検討も充分されずに終わっています。

次に近江の歴史を考えると、西日本と東日本の接点になると言う事です。
ちょうど近江で東日本と西日本が分かれています。“関西”という言葉がありますが、これは「関所より西だ」という事です。近江の周りには“愛発の関(あらちのせき・越前)”“不破の関(ふわのせき・美濃)”“鈴鹿の関(すずかのせき・伊勢)”という奈良時代の関所がありました。近江というのはこれよりも西にありますから関西です。ところが平安時代になって愛発の関に代わって“逢坂の関(おおさかのせき・山城)”が出来ます。これが出来ますと近江は関所よりも東になり関東という事になります。
関所よりも東・西で関東・関西を分ける事はこの先もいたしておりますが、ここ(会場)を関内といいますね?
これをなぜかと思い聞いてみましたら、ここは外国人の居留地でそこから外に出るには関所があって、関所の中だから“関内”という答えで、なるほどと思いました。
このように近江は平安時代は関東でしたが、鎌倉時代になると鎌倉幕府は西日本38ヶ国を“西国”と制定したのですが、その時には近江は東国になっています。
江戸時代になると箱根の関よりも東が東国となり、厳密には江戸時代も近江は東国扱いを受けている事が多いのですが、しかしある時は西国に入りある時は東国に入る位置づけにあったのです。
このように近江は東日本と西日本の境目にあり、日本の中心にあったと言えます。

次に古代の行政区画ですが、古代は「五畿七道」と言われています。五畿は“山城・大和摂津・河内・和泉”今の奈良県と京都府と大阪府です。それ以外を幹線道路に沿って分けてこれを“七道”といいます。
近江の国は東山道に属します、これは一番西が近江で、一番東北が陸奥です。滋賀県と青森県が同じ行政区画にあったと言えるのです。しかし地理的にも歴史も全然違っています。
そして畿内を“近畿”と言います。今は近畿地方に近江も属していますが、これは畿内とその近くという事で近江が近畿に属している訳です。
このようにして近畿地方であり東山道に属していたという訳です。
陸奥国と同じ行政区画にありながら経済はどうなっていたかと言うと、『延喜式』では国をランクつけしまして、「大・上・中・下」に分けていますが、近江は「大国」でありました。
近江は有数の穀倉地帯で、戦国時代に全国で1800万石あったと言われていますが、近江は77万石くらいです。隣に岐阜県その隣に愛知県があり大きな濃尾平野が広がっていますが、その広大な美濃・尾張の当時の取れ高は50万石余りです。広い平野よりも真中に琵琶湖がある方が多く収穫できるのは、戦国時代までは大きな川を制御する能力が人間には無く、大きな川の流域はなかなか水田化しなかったのだろうと推測されます。その点、近江には中小河川しかありませんので開発が進んだのではないかと私は思っています。

交通上から見た近江ですが、東西を結ぶ幹線、北陸を結ぶ幹線道路が近江を通っています。
まさに幹線道路・鉄道は現在でも全て滋賀県を通っています。それで「近江は道の国だ」となり、今日の演題も“みちの国”になっていますが、これは戦後に生まれた言葉です。
古代においては七道の内で「北陸道・東海道・東山道」の三つの幹線道路が通っています。ところが古代のこの様な幹線道路は中世になると衰えてきまして、もっと便利な道を使う事が多くなります。
しかし近江では東山道(後の中山道)を使っていて、それから美濃・尾張で東海道へ移ってあとは東海道を通るので、“近江東海道”などとも言われます。そういう道が中世に使われています。
近世になりますと、古代からありました琵琶湖の西を通る北陸道が“北国街道(西近江路)”という形、古代の東山道は“中山道”と名前を変えています。
その他に北陸から関ヶ原を通って東海を結ぶ“北国脇往還”が非常によく使われました、北国脇往還も明治に付いた名前で、実際は参勤交代にも使われていたので決して脇道ではありません。私は「これは間違いだ」と盛んに言っています。ここは戦国時代でも関ヶ原の合戦・姉川の合戦・賤ヶ岳の合戦はすべてこの北陸脇往還沿線で行われていて、これは近江戦国の道だと主張しています。決して脇道ではなく北国街道よりも利用者は多かったくらいです。
さらに面白い名前では“朝鮮人街道”があります。これは朝鮮通信使が通ったのでこの名前が付いたのですが、徳川家康が関ヶ原の合戦で勝利を得て初めて上洛する時にこの道を通ったので、幕府にとって縁起の良い道でした。
その後、国交回復した朝鮮から正式な使節が来るようになりこの道を通らしこの名前が付きました。
もう一つ“御代参街道”はお伊勢参りをした人が近江にある多賀大社へ、特に京都の公家が自分が行かずに代参をたて、東海道の土山宿から北上して中山道を入って多賀大社に参るので代参街道と呼ばれました。
この様に、通る人や物によって街道の名前が付くと言うのは全国的にもそう多くはないのではないかと勝手に思っています。もう一つ琵琶湖に西に“若狭街道”があります、最近では“鯖街道”として重要な観光資源になっています。鯖寿司の美味しい店もこの沿線にありますが、これも戦後できた名前でありまして古くからは言われておりません。
ただ若狭小浜で捕れた鯖に塩をかけて一昼夜かけて京に運ぶと新鮮な鯖がちょうど良い塩加減で京の人の口に入るのでこういう名前ができ観光資源になりました。

要は、日本列島の中心にあって多くの重要な道が通っていた、今も通っている「みちの国」であると言え、その為に古くから文化が発展したとも言え文化上の特色も挙げればキリがないのですが、端的な特色として人口10万人辺りの寺院の数という統計が出ておりますが10万人に対し270程のお寺があって全国一です。
最近は滋賀県の人口が増えて率が低くなり福井県の方が多くなりましたが、いずれにしてもお寺が多くそれだけ仏教文化が栄えました。それだけ仏教文化が栄えた事を表すように文化財も多いです。
平成20年の国宝も含めた重要文化財の都道府県別統計によりますと、滋賀県は東京・京都・奈良に次いで4番目です。京都や奈良に多いのは分かります、東京は明治以降に多くなりました。滋賀県はかつては京都・奈良に次いで多かったのです。
東京とのデータで比較すると、移動し易い絵画などは東京に多く移動しにくい彫刻や建造物は滋賀県の方が多いです。文化財が豊富だと言う事は交通が便利で、文化が発達し、そして文化財がたくさん残されたという事が言えるのではないかと思います。


以上簡単に近江の歴史をご説明しましたが、近江の歴史を紐解くキーワードは3つあると言われています。
ひとつは“道”、ひとつは“湖”もうひとつは“お寺・仏教”
今回は『近江みちの国講座』ですので、道について取り上げていきたいと思います。

「近江を制する者は天下を制す」とよく言われます。
特にこれは瀬田の唐橋を取った方が勝ちだと言う事で、歴史上確かにそういう事件は多く起こっています、壬申の乱・藤原仲麻呂の乱・承久の変・本能寺の変の時もそうでした。また武田信玄は上洛中に病気になって亡くなりますが、その遺言が「何とかして瀬田の唐橋に風林火山の旗を立てろ」と言って亡くなったといわれています。
このように、瀬田の唐橋の取り合いが天下を決めたという歴史はたくさんあります。
戦国時代、京都を抑えるにはまず近江を抑えないといけない、織田信長も豊臣秀吉も東海地方の出身で、「京都を抑えるためには近江を抑える」といつも頭にある訳です。そこで信長は可愛い妹を近江の浅井長政の嫁にするという事を行った訳です。このように近江は天下統一をする為にまず手に入れる必要があると織田信長は固く信じていたようですね。
ところがそう言いますと「だったら近江から戦国の覇者が出ても良いんじゃない?」と言われる訳ですが、実際出ていません。これはいろんな事が考えられますが、ひとつはやはり寺院の勢力が強いのです。戦国大名が大きな力を持つ事ができませんでした。
もうひとつは早くからの文化の発展で庶民の力も強かったのです。浅井長政が戦国大名として頑張ろうとしても武田信玄のようにはいかなかったのです。それほど庶民の力が強くこれを仲間に入れないことには、力を発揮しようとしても庶民と僧によって有力な戦国大名が出なかったのではなかろうかと思う次第です。

近江は大きな力を発揮してきましたが、明治以降はそれほど大きな力は発揮しておりません。それは江戸時代の反動だろうと思います。
井伊直弼に反対していた薩長が明治政府を作ります、ですから明治政府からは滋賀県は非常に冷遇されます。
例えば近江では「いくら能力があっても高級官僚にはなるな」もしくは「軍人にはなるな」「御用商人になろうと思ってもなれない」とよく言います。
ですから「いくら頑張っても出世できないので経済で活躍するのだ!」と近江商人の流れが活躍する事になろうかと思います。

近江商人は、何も近江の商人というのではなく、“近江から余所に出て商売をしている商人”です。全国各地で商業活動をしている近江出身の商人を近江商人という訳ですが、すぐに天秤棒を連想されると思います。
天秤棒一本で行商を行って大きな財を作ったのが近江商人のひとつの形だと言われていますが、私は天秤棒一本であんな巨万の富を蓄えられる筈がないとかねがね思っていました。
よく注意して見ると、天秤棒に商品見本か見回り品かお金を乗せているくらいで、イザトなれば多くの商品を馬や千石船を用意して集中的に上方から運ぶことをやっていて、天秤棒は象徴的な物でした。
その商法の特色は現在の商社のようなものでした。
日本列島は広く、経済の発達も違います。それで、産物回し“有る所の品物を無い所に運ぶ、更にそこに有る物をまた運ぶ”こうして利益を得るという大きな産物回しをして利益を上げたと言われています。更によく言われるのは“三方よし”である。
三方よしとは、商売をする上ではまず売り手が儲ける“売り手よし”買い手も喜ぶ“買い手よし”でもそれだけではなく世間が喜ぶような社会貢献をしないと商売は長続きしないという“世間よし”これがないと信用も得られないのです。ですから「世間よしの観点が近江商人にはあったから学ぶべきことが多いのだ」と私は盛んに言っていました。
藤野四郎兵衛という近江商人がいます。天保の大飢饉で皆んなが困っている時に立派な屋敷と広い庭を造りました。それを知った彦根藩主は四郎兵衛を強く叱りますが、実はそうではなくこれによって人を雇うという雇用の創出をやり逆に彦根藩主から褒められました。
現在は不景気ですから近江商人に学ぶべきところはあるのではないでしょうか?特に定額給付金でも貰えばこれはどんどんと使わないといけないですね、特に豊かな人が使わないといけないです。
お助け普請なんて物が行われたのも、世間よしの近江商人の特色でもあります。にもかかわらず「近江泥棒、伊勢乞食」という言葉があります。『広辞苑』で調べますと、“近江泥棒”は「近江商人が江戸に入って勤勉に働いて、多くの富を蓄えたのを、江戸っ子がやっかみ半分に言った言葉」と書いてあります。私は江戸の人がやっかみ半分だけではなく、近江商人の中にも悪徳商人が居て、天井の無い蚊帳を売り歩いたという話もあります。しかし大多数の近江商人は真面目に働いて信用を得て富を増やしたのです。
でも、あまり儲け過ぎるとこれは妬みを買ったりすることもあったでしょう、そして江戸時代は農業中心の自給自足の経済ですが近江商人はこれを真っ向から反対する事をしている訳です。
古着を仕入れて東北へ持って行ってこれを売る、東北では紅花を買って上方でこれを売るというのこぎり商法だったりした訳ですが、当時品物を売るのは掛け売りで年に2回くらい集金するのが多かったので、珍しい商品を農村へ持って行って売り、半年後くらいに近江商人がなけなしの金を持って行く、という事があったのではないかと思います。
気が付いたら近江泥棒と思われたのかもしれません、悪いことではなく正当な商売をしていたのですが、自給自足の経済を壊し普及経済を築いたという面では、近江商人は大きな役割を果たしたと同時に被害を受けた人もいたのでしょう。
ですが、新しい経済体制を作るために近江商人は大きな役割を果たし、また全国各地に支店を出して広げるためには地元の人の応援がなければできない事ですが、悪い言葉が残っている事も事実です。


最後に近江路を歩いた人々ですが、私は様々な旅日記を調べて、その人が近江でどんな物を見て何を感じたのかをいろいろ調べています。
例えば佐藤長右衛門という出羽国の人は200日余りで東北から長崎までの大旅行をしています。江戸時代に今で言えば世界一周旅行のような事をしている農民がいました。
私にとっては驚きでした。しかも近江で琵琶湖を見て「夢想の景だ」と言っています。やはり近江以外から来た人にとって琵琶湖は綺麗なんです。ですからぜひ琵琶湖に来ていただきたいと思います。
旅日記には琵琶湖を称えている記録はたくさんあります。朝鮮通信使には「琵琶湖は中国の洞庭湖と変わらないくらい綺麗だ」と称賛しています。旅人が近江で見たもので一番の中心はやはり琵琶湖です。
信州の農民が偶々近江で最新の脱穀機を見つけます、これは千歯扱です。これをわざわざ日記に書いて絵も残しています、これを村に持って帰って普及させたのでしょう。
旅日記を見ていますと面白い点がたくさんあります。
では、私の話はこれで終わります。
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