天正18年2月11日、井伊直孝が誕生しました。
つまり建国記念の日が井伊直孝の誕生日です。
井伊直政の次男
母は印具徳右衛門の娘
井伊直政が上野国(群馬県)箕輪城12万石の城主だった時、同じ年に2人の男児が誕生しました。
長男が、万千代(直継)
次男が、弁之助(直孝)と命名されました。
同じ年に生まれたこの兄弟の母親は別の人物で、万千代の母は正室・松平氏でしたが、弁之助の母・印具氏は、万千代の母の侍女だったのです。
怒った松平氏は印具氏と弁之助を城から追い出してしまったのです。
ちなみに直孝の産湯を汲んだ井戸が静岡県焼津市中里の若宮八幡宮に残っていますので、もしかしたら印具氏が追い出されたのは弁之助が生まれる前だったのかも知れません。
そんな風に、城から追い出された弁之助でしたが、6歳の時に母・印具氏に連れられて直政と親子の対面を果たし、その保護を受けるようになりましたがまだ城に入る事ができなかったのです。
11歳の時に弁之助の有能さを惜しみ手元で育てたいと望んだ直政は、迎え入れるのを拒む松平氏に対して「弁之助に母が居なくなれば我が手で育てねばなるまい」と言い、印具氏に刺客を向けて殺してしまったのです。
こうして母を失った弁之助は父・井伊直政の息子として迎えられたのでした。
この時、直政は近江国佐和山18万石の城主となっていましたが、翌年に亡くなってしまうのです。
しばらくして、徳川家康に拝謁、家康の後継・秀忠に仕え井伊家の別家として所領を得ました。
そして15歳で兄・万千代と共に元服し、直孝と名乗ったのです。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣で初陣を飾りますが、この時に病弱な兄に代わって井伊家家臣を率いて出陣しました。
この戦いでは真田幸村の真田丸に攻撃を仕掛けて大敗を喫しますが、その勇猛振りを家康に評価されたのでした。
冬の陣和睦後、家康から井伊家宗家の家督を兄・直継から直孝に譲るようにとの命が下ります。
こうして直孝は彦根藩井伊家を相続したのです。
石高は15万石。3万石を直継に譲ったのでした。この時から井伊家は2家に分かれたのでした。
直孝が藩主になるまでを簡単に書きましたが、管理人は常々疑問に思っている事があります。
井伊直孝と兄の直継は同い年の兄弟だったと言われていますが、直孝が2月11日生まれなら、直継はそれより前と言う事になり1ヵ月くらいしかありません。
二人の父である直政は天正17年の頃小田原の陣の前で少し手隙の時期だったとはいうものの、怖い奥さんとその目を忍んでその侍女にまでを懐妊させる事が出来たのでしょうか…?
もしかしたら、直孝の方が兄で直継が後に生まれたのに、直孝が余所で生まれた侍女の子だったので敢えて次男と言う事になったのではないでしょうか?
あくまで予測の域を出ませんが、もしかしたら?と考えると面白そうです。
つまり建国記念の日が井伊直孝の誕生日です。
井伊直政の次男
母は印具徳右衛門の娘
井伊直政が上野国(群馬県)箕輪城12万石の城主だった時、同じ年に2人の男児が誕生しました。
長男が、万千代(直継)
次男が、弁之助(直孝)と命名されました。
同じ年に生まれたこの兄弟の母親は別の人物で、万千代の母は正室・松平氏でしたが、弁之助の母・印具氏は、万千代の母の侍女だったのです。
怒った松平氏は印具氏と弁之助を城から追い出してしまったのです。
ちなみに直孝の産湯を汲んだ井戸が静岡県焼津市中里の若宮八幡宮に残っていますので、もしかしたら印具氏が追い出されたのは弁之助が生まれる前だったのかも知れません。
そんな風に、城から追い出された弁之助でしたが、6歳の時に母・印具氏に連れられて直政と親子の対面を果たし、その保護を受けるようになりましたがまだ城に入る事ができなかったのです。
11歳の時に弁之助の有能さを惜しみ手元で育てたいと望んだ直政は、迎え入れるのを拒む松平氏に対して「弁之助に母が居なくなれば我が手で育てねばなるまい」と言い、印具氏に刺客を向けて殺してしまったのです。
こうして母を失った弁之助は父・井伊直政の息子として迎えられたのでした。
この時、直政は近江国佐和山18万石の城主となっていましたが、翌年に亡くなってしまうのです。
しばらくして、徳川家康に拝謁、家康の後継・秀忠に仕え井伊家の別家として所領を得ました。
そして15歳で兄・万千代と共に元服し、直孝と名乗ったのです。
慶長19年(1614)に大坂冬の陣で初陣を飾りますが、この時に病弱な兄に代わって井伊家家臣を率いて出陣しました。
この戦いでは真田幸村の真田丸に攻撃を仕掛けて大敗を喫しますが、その勇猛振りを家康に評価されたのでした。
冬の陣和睦後、家康から井伊家宗家の家督を兄・直継から直孝に譲るようにとの命が下ります。
こうして直孝は彦根藩井伊家を相続したのです。
石高は15万石。3万石を直継に譲ったのでした。この時から井伊家は2家に分かれたのでした。
直孝が藩主になるまでを簡単に書きましたが、管理人は常々疑問に思っている事があります。
井伊直孝と兄の直継は同い年の兄弟だったと言われていますが、直孝が2月11日生まれなら、直継はそれより前と言う事になり1ヵ月くらいしかありません。
二人の父である直政は天正17年の頃小田原の陣の前で少し手隙の時期だったとはいうものの、怖い奥さんとその目を忍んでその侍女にまでを懐妊させる事が出来たのでしょうか…?
もしかしたら、直孝の方が兄で直継が後に生まれたのに、直孝が余所で生まれた侍女の子だったので敢えて次男と言う事になったのではないでしょうか?
あくまで予測の域を出ませんが、もしかしたら?と考えると面白そうです。