明治14年(1881)2月7日、福井県が現在の形で再誕生しました。
「何で彦根で福井の話やねん!」と思われるでしょうが、最後までお付き合いくださいませ。
近畿地方から北陸地方に入る最初の県である福井県は、日本海に面する穏やかな土地ですが、木ノ芽峠を境に“嶺南”“嶺北”に分かれ、文化圏も“嶺南”は近畿、“嶺北”は北陸となっています。
明時代初期の廃藩置県以前は、嶺南は若狭国・嶺北は越前国と分かれていましたが廃藩置県後にいくつかの統合を繰り返し、敦賀県と足羽県(福井県)の2県に落ち着いた後に明治6年(1873)には現在の県と同じ地域が“福井県”として確定したのです。
しかしその3年後に福井県はまた嶺南と嶺北に分かれ、嶺南は滋賀県、嶺北は石川県に組み込まれたのでした。
山を隔てた若狭地方が滋賀県に組み込まれるのは不思議な感覚がありますが、実は琵琶湖を介して京・近江・若狭は一つの運輸ルートがあり、江戸時代はこの為に今津近くの木津に小浜藩(若狭国)の飛び地があったほどなのです。
ですので湖西北部の方々は若狭と同じ生活圏になっていたのでした。
滋賀県が嶺南と合併したことによって、小浜~今津間の街道は整備が急速に進みそれまで以上に物資の運搬が楽になったのですが、明治14年に石川県に組み込まれていた嶺北で地租改正反対運動が起こったことから石川県と嶺北を切り離さざるを得ず、嶺北だけではあまりにも小さかったので、順調に進んでいた滋賀県と嶺南を切り離して、元の福井県として再び誕生させたのです。
しかし、嶺南と嶺北では文化があまりにも違うために、嶺南では滋賀県に復県する運動が起こり「近江と若狭は歯唇相離るべからずの国」と主張したのでしたが復県には至らないまま現在に至ったのです。
ちなみに若狭と近江の運輸を運河で繋ごうとする壮大な計画が平安時代末期から何度も計画されていました。
最も古い計画は平清盛だったそうです。しかしこれは深坂山の地盤が固すぎて失敗しました、豊臣秀吉も同じ理由で失敗しています。
江戸時代に入っても何度か計画されては地元の運搬業者や農民の反対で頓挫し、ついには若狭から琵琶湖までの間に川を掘りを船を曳いて途中で陸路にする方法も採用されたのです。
安政年間にはより利用し易いように大改修を行う計画が立ちあがりましたが、この計画が遂行されると琵琶湖を管理している彦根藩の湖上での利権が衰退してしまい藩料の港の収益も激減される可能性が高かった事から、藩主・井伊直弼は猛反対します。
直弼の反対にも関わらず幕府よりの許可されますが結局完成を見ずに終ってしまったのです。
「何で彦根で福井の話やねん!」と思われるでしょうが、最後までお付き合いくださいませ。
近畿地方から北陸地方に入る最初の県である福井県は、日本海に面する穏やかな土地ですが、木ノ芽峠を境に“嶺南”“嶺北”に分かれ、文化圏も“嶺南”は近畿、“嶺北”は北陸となっています。
明時代初期の廃藩置県以前は、嶺南は若狭国・嶺北は越前国と分かれていましたが廃藩置県後にいくつかの統合を繰り返し、敦賀県と足羽県(福井県)の2県に落ち着いた後に明治6年(1873)には現在の県と同じ地域が“福井県”として確定したのです。
しかしその3年後に福井県はまた嶺南と嶺北に分かれ、嶺南は滋賀県、嶺北は石川県に組み込まれたのでした。
山を隔てた若狭地方が滋賀県に組み込まれるのは不思議な感覚がありますが、実は琵琶湖を介して京・近江・若狭は一つの運輸ルートがあり、江戸時代はこの為に今津近くの木津に小浜藩(若狭国)の飛び地があったほどなのです。
ですので湖西北部の方々は若狭と同じ生活圏になっていたのでした。
滋賀県が嶺南と合併したことによって、小浜~今津間の街道は整備が急速に進みそれまで以上に物資の運搬が楽になったのですが、明治14年に石川県に組み込まれていた嶺北で地租改正反対運動が起こったことから石川県と嶺北を切り離さざるを得ず、嶺北だけではあまりにも小さかったので、順調に進んでいた滋賀県と嶺南を切り離して、元の福井県として再び誕生させたのです。
しかし、嶺南と嶺北では文化があまりにも違うために、嶺南では滋賀県に復県する運動が起こり「近江と若狭は歯唇相離るべからずの国」と主張したのでしたが復県には至らないまま現在に至ったのです。
ちなみに若狭と近江の運輸を運河で繋ごうとする壮大な計画が平安時代末期から何度も計画されていました。
最も古い計画は平清盛だったそうです。しかしこれは深坂山の地盤が固すぎて失敗しました、豊臣秀吉も同じ理由で失敗しています。
江戸時代に入っても何度か計画されては地元の運搬業者や農民の反対で頓挫し、ついには若狭から琵琶湖までの間に川を掘りを船を曳いて途中で陸路にする方法も採用されたのです。
安政年間にはより利用し易いように大改修を行う計画が立ちあがりましたが、この計画が遂行されると琵琶湖を管理している彦根藩の湖上での利権が衰退してしまい藩料の港の収益も激減される可能性が高かった事から、藩主・井伊直弼は猛反対します。
直弼の反対にも関わらず幕府よりの許可されますが結局完成を見ずに終ってしまったのです。