今回のお話は、最後まで読んでも彦根は全く関係ありませんが、武士の世界を語る上での一般常識を含んだお話を書きます。
これで、ちょっとでも「なるほど」と思っていただければ嬉しいです。
寛平元年(889)5月13日、桓武天皇の孫(もしくは曾孫)の高望王が宇多天皇の勅命で“平姓”を授かり臣籍降下しました。
同時に上総介にも任じられています。
当時の皇族は天皇にたくさんの側室が居た関係もあって子どもが増える一方でした。しかし有力貴族は私有地を持って収入を得て資産を築いていたのに対し国庫の財政となる土地は荒れ果てていた為に、皇室ではこう言った一族を養う事ができず、天皇から何代か離れた子孫は姓を与えて家臣とする臣籍降下が行われていたのです。
この時に与えられる姓のほとんどは“源”だったのですが、桓武天皇の子孫は桓武天皇が築いた「平安京」にちなんで“平”の姓が与えられたのでした。
そして高望王が平氏を名乗った子孫を“桓武平氏”と呼びます。
この高望王の三男(もしくは四男)良将の子が平将門で、将門が高望王の長男の国香(つまり将門の伯父)を殺害した事が“平将門の乱”の勃発となったのです。
この平将門の乱で将門が鎮圧される事により桓武平氏の勢力は急速に衰えるのです。
やがて、平国香の子である平貞盛(将門討伐に功を挙げる)の四男の平維衡は領国を伊勢に定めて“伊勢平氏”の祖となるのです。
余談ですが、貞盛の次男・平維将の子孫が鎌倉時代の執権職を世襲する北条氏です(ただし信憑性には疑問が残ります)。
さて、伊勢平氏はこの後に栄華を極める事となります。
平維衡の長男・平正度の五男(もしくは六男)の平正衡の曾孫が平清盛です。
平清盛といえば、平安時代末期に武士では初めて太政大臣に任ぜられて、『平家物語』には「平氏にあらずんば人にあらず」という傲慢な言葉が残されるくらいの繁栄を極めた人物で、その死後に激化する源平合戦の片翼を担う一族の棟梁ですよね。
こう言ったイメージから平清盛は桓武平氏の直系という感覚がありますが、実は伊勢平氏が既に桓武平氏の傍流で、清盛の曽祖父である正衡が五男(六男?)であった様に、伊勢平氏でも傍流の家系だったのです。
一般的に源平合戦は“源氏”と“平家”の戦いと言われていて、“源家”と“平氏”とは現されません。
その理由は源頼朝は清和源氏の正当な後継ぎである源一族の棟梁たる“源氏”なのですが、平清盛は平氏から分家して分家した平氏の中の一つの家でしかありませんので“平家”となるのです。
つまり、源氏と平家では家の身分がまったく違う事になるんですね。
歴史用語にはこんな細かいところにまでチェックが入っている物もあるんですよ。最近はそう言った細かい歴史用語の粋のような物を否定する学者さんも増えてきていて、意味のない教科書改訂が行われて居るのが悲しいですがね。
これで、ちょっとでも「なるほど」と思っていただければ嬉しいです。
寛平元年(889)5月13日、桓武天皇の孫(もしくは曾孫)の高望王が宇多天皇の勅命で“平姓”を授かり臣籍降下しました。
同時に上総介にも任じられています。
当時の皇族は天皇にたくさんの側室が居た関係もあって子どもが増える一方でした。しかし有力貴族は私有地を持って収入を得て資産を築いていたのに対し国庫の財政となる土地は荒れ果てていた為に、皇室ではこう言った一族を養う事ができず、天皇から何代か離れた子孫は姓を与えて家臣とする臣籍降下が行われていたのです。
この時に与えられる姓のほとんどは“源”だったのですが、桓武天皇の子孫は桓武天皇が築いた「平安京」にちなんで“平”の姓が与えられたのでした。
そして高望王が平氏を名乗った子孫を“桓武平氏”と呼びます。
この高望王の三男(もしくは四男)良将の子が平将門で、将門が高望王の長男の国香(つまり将門の伯父)を殺害した事が“平将門の乱”の勃発となったのです。
この平将門の乱で将門が鎮圧される事により桓武平氏の勢力は急速に衰えるのです。
やがて、平国香の子である平貞盛(将門討伐に功を挙げる)の四男の平維衡は領国を伊勢に定めて“伊勢平氏”の祖となるのです。
余談ですが、貞盛の次男・平維将の子孫が鎌倉時代の執権職を世襲する北条氏です(ただし信憑性には疑問が残ります)。
さて、伊勢平氏はこの後に栄華を極める事となります。
平維衡の長男・平正度の五男(もしくは六男)の平正衡の曾孫が平清盛です。
平清盛といえば、平安時代末期に武士では初めて太政大臣に任ぜられて、『平家物語』には「平氏にあらずんば人にあらず」という傲慢な言葉が残されるくらいの繁栄を極めた人物で、その死後に激化する源平合戦の片翼を担う一族の棟梁ですよね。
こう言ったイメージから平清盛は桓武平氏の直系という感覚がありますが、実は伊勢平氏が既に桓武平氏の傍流で、清盛の曽祖父である正衡が五男(六男?)であった様に、伊勢平氏でも傍流の家系だったのです。
一般的に源平合戦は“源氏”と“平家”の戦いと言われていて、“源家”と“平氏”とは現されません。
その理由は源頼朝は清和源氏の正当な後継ぎである源一族の棟梁たる“源氏”なのですが、平清盛は平氏から分家して分家した平氏の中の一つの家でしかありませんので“平家”となるのです。
つまり、源氏と平家では家の身分がまったく違う事になるんですね。
歴史用語にはこんな細かいところにまでチェックが入っている物もあるんですよ。最近はそう言った細かい歴史用語の粋のような物を否定する学者さんも増えてきていて、意味のない教科書改訂が行われて居るのが悲しいですがね。