667年3月19日、中大兄皇子が都を大津に移しました。

現在では大津宮と呼ばれている近江の都は、本来は『水海大津宮(おうみのおおつみや)』であったとの説もありますが、ここでは従来通りの大津宮で書きます。
歴史の教科書にも登場する大津宮ですが、なぜここに都が置かれたのか正確なことはわかっていません。従来言われている説は、663年に白村江の戦いで百済と連合し、唐・新羅連合軍と戦って敗戦に陥ったために、唐や新羅が日本に攻め込んでくることを想定したうえでの備えとされています。
ですから、条理制を備えた都ではなく、山と湖に挟まれた要害の地に都を作り、場合によっては船で琵琶湖を渡って、対岸から東山道(中山道)や北国街道から東国へ逃げることができるルートであったとも考えられてます。
逆説的にみれば、東国や北陸からの荷物はすべて大津の近くを通るわけですから、ここに都があれば西日本と東日本を通過するほとんどの物資・人材の流れを監視することもできるわけです。
しかし、もし海外の脅威による遷都ならば、その成立からすでに後ろ向きなものであったと考えられます。そのためか、民衆からの反対が多く、都の施設が何度も放火された、と大津宮を紹介する情報にはよく書かれています。
ちなみに中大兄皇子は、大津宮遷都の翌年に即位し後に天智天皇と呼ばれますが、この時にはすでに天皇としての公務をこなして7年目になっていましたので、年表では、
・天智天皇6年(667)3月19日、大津宮遷都
・天智天皇7年(668)1月3日、天智天皇即位
という、不思議な書き方がされています。
【大津宮址の一部に建つ近江神宮】



こののち、大津宮は672年の壬申の乱で天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)が自害したことで都としての役割を終え、勝者の天武天皇が飛鳥浄御原宮に都を置いたために、近江にはたった5年しか都がなかったことになるのです。
【飛鳥浄御原宮跡地とも言われている伝飛鳥板蓋宮跡】


現在では大津宮と呼ばれている近江の都は、本来は『水海大津宮(おうみのおおつみや)』であったとの説もありますが、ここでは従来通りの大津宮で書きます。
歴史の教科書にも登場する大津宮ですが、なぜここに都が置かれたのか正確なことはわかっていません。従来言われている説は、663年に白村江の戦いで百済と連合し、唐・新羅連合軍と戦って敗戦に陥ったために、唐や新羅が日本に攻め込んでくることを想定したうえでの備えとされています。
ですから、条理制を備えた都ではなく、山と湖に挟まれた要害の地に都を作り、場合によっては船で琵琶湖を渡って、対岸から東山道(中山道)や北国街道から東国へ逃げることができるルートであったとも考えられてます。
逆説的にみれば、東国や北陸からの荷物はすべて大津の近くを通るわけですから、ここに都があれば西日本と東日本を通過するほとんどの物資・人材の流れを監視することもできるわけです。
しかし、もし海外の脅威による遷都ならば、その成立からすでに後ろ向きなものであったと考えられます。そのためか、民衆からの反対が多く、都の施設が何度も放火された、と大津宮を紹介する情報にはよく書かれています。
ちなみに中大兄皇子は、大津宮遷都の翌年に即位し後に天智天皇と呼ばれますが、この時にはすでに天皇としての公務をこなして7年目になっていましたので、年表では、
・天智天皇6年(667)3月19日、大津宮遷都
・天智天皇7年(668)1月3日、天智天皇即位
という、不思議な書き方がされています。
【大津宮址の一部に建つ近江神宮】



こののち、大津宮は672年の壬申の乱で天智天皇の息子の大友皇子(弘文天皇)が自害したことで都としての役割を終え、勝者の天武天皇が飛鳥浄御原宮に都を置いたために、近江にはたった5年しか都がなかったことになるのです。
【飛鳥浄御原宮跡地とも言われている伝飛鳥板蓋宮跡】

