彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『戦国怪談話』その10 近江の妖怪その2

2011年09月02日 | 『戦国怪談話』
近江の妖怪で特徴的なのは、やはり延暦寺や琵琶湖を舞台にした妖怪たちです。


○蓑火(鬼火・油坊・油盗人)
彦根市大薮町では、雨の日の夜に蓑を着ながら琵琶湖に船で出ると、蓑に青っぽい火が付き、慌てて消そうと払っても取れず数が増えて行くのですが熱くはない。という伝承があり琵琶湖で亡くなった人の人魂といわれています。
もしかしたら、雨に濡れた蓑に付いた水滴が月の光を浴びて光ったのを、他の船からは火が付いているように見えたのかもしれませんね。

鬼火や油坊・油盗人は延暦寺に関わるお話。油坊は延暦寺で油を盗んで罰せられ欲賀村(守山市)で亡くなった僧侶が成仏できずに欲賀から延暦寺まで火の玉となって飛んでいく妖怪。
油盗人は松尾寺(愛荘町)の男が延暦寺の油を独占して寺に納めて大金持ちになったのですが、やがて放蕩が過ぎて没落し哀れな死を迎え、その後には、人魂が延暦寺まで行って油の周りをうろうろ飛び回っていたということです。どちらも火に関係していて、近くで見た者の証言では坊主頭の生首が火を吐いた姿だったといわれています。

これ以外にも、河童と同じような意味で使われる水虎の伝説があるのも琵琶湖ですし、比良八荒は琵琶湖の水難事故で亡くなった霊が起こしているともいわれました。


また有名な伝説では俵藤太の三上山の大ムカデ退治の話や、全国的に広がる舌切雀伝説は湖西にもあります。
そして、有名な怪談話である番町皿屋敷も近江に残る伝説の一つです。


○皿かぞへ
有名なのは、江戸の番町や姫路城内にはお菊の井戸があり番町は播州がなまった物ではないかともいわれていますが、彦根にも伝説があります。
寛文4年(1664)彦根藩の500石取の重臣に孕石政之進という美男子がいました。政之進は、自分の屋敷に下働きに来ている足軽の娘お菊と恋仲になっていたのですが、身分の差があり正式な結婚が認められませんでした。こうして政之進は身分に合った女性との婚約が決まりますが、お菊に対して「俺はお前しか見ていない」みたいなことを言います。
お菊はその言葉が信じられずに、自分への愛を確認するために孕石家の家宝の皿を1枚割ってしまいます。

孕石家の家宝の皿は、とても大切な意味がありました。井伊直孝に仕えた孕石家の祖先の孕石泰時は大坂の陣に出陣しここで戦死しますが、その武功によって直孝から孕石家に与えられた10枚の皿でした。そしてこの皿は、徳川家康から井伊家に与えられた物だったのです。
普通に考えてもお殿様のお殿様から伝わった物ですから大切なのですが、孕石家には別の意味もありました。
徳川家康がまだ幼い頃、人質として駿河今川家に連れて行かれました、この時に家康の隣に住んでいたのが孕石泰時の父親の元泰でした。元泰は家康を虐めて虐めて虐め続けます。ですので後で家康が大大名として今川家を滅ぼし、その後に孕石家は武田家に仕え武田家の城のひとつの高天神城に入ります。
高天神城は天正9年3月に家康によって落とされ、その時に武田の家臣のほとんどを家康の配下として迎えるのですが、孕石元泰には切腹を申しつけたのです。ですから孕石家は家康に恨まれた存在だったのです。
そんな家康が井伊家に与えた皿を孕石家が貰うのは、徳川に許されたという意味があったのです。

その皿を割ったというのは大変なことなのです。それも手違いでは仕方がないが愛を確かめるために割ったという事情が許されるものではなく、お菊は政之進に斬られました。そして残りの皿をすべて割ってお菊の遺体と共に実家に還されたのです。
こののち、お菊の霊は孕石家の屋敷の井戸に、これから孵化しようとする蛾の幼虫がいたのでそれに乗り移り、蛾になって政之進に女性が近付こうとするとその邪魔をしました。
政之進はお菊の愛の深さを知って屋敷にお稲荷様を作り、政之進は出家してお菊の霊を弔うために全国を行脚し駿河で亡くなります。駿河には政之進が残した刀があるとも言われています。

お菊さんのお墓は今、彦根の長久寺にあり、ここには割れた皿のうち6枚が残っています。

余談ですが、この話を数年前に地元の中学生にしたことがあります。すると番町皿屋敷の話を知らなかったようです。そして皿屋敷の話をしました「一枚二枚…と数えて九枚まで数えたらいなくなるんだよ」って。
すると「それだけですか?」と言われました。そして「貞子の方が怖いですよね」って言われました。
今の子の方が怖いですよね。
コメント
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