先日、映画『一命』の感想を書きましたが、この映画は滝口康彦さんの『異聞浪人記』が原作となっています。
では『異聞浪人記』は、何かモデルのなる話があるのかと言いますと、実はあるのです。
徳川幕府四代将軍徳川家綱の治世のこと、日本中が浪人で溢れ返っていて、当時は浪人を“牢人”とも書いたので「ウ冠の下に牛とは、我らは牛畜生の扱いである」と憤る者もいました。
そんなすさんだ浪人たちのなかで流行したのが、大名の屋敷を訪ねて「生計に窮し、最早生きることもままならぬので、お屋敷の庭先をお借りして切腹したいと思います。どうか介錯をお願いしたい」と申し出ることでした。
関ヶ原や大坂の陣の直後の武骨な武士が生きていた頃ならいざ知らず、この時期の武士は下手をすると刀を抜かないまま一生を終える者すら居るような時代だったのです。
「庭先といえども血で汚されたらたまらない」「そもそも一刀で介錯を成し遂げるほどの者が藩に居るのか?居なければ我が藩は世間の笑い者になる」などの事情から、多くの藩では金品を渡して、諭したという形で引き取らせるのが普通であり、それに味をしめた浪人たちが切る気もない腹を「切る」と言いたてる事件が横行したのです。
諸大名がこれらの浪人の対応に困っていた時、彦根藩井伊家の上屋敷にも切腹をしたいとの浪人が現れたのです。
この時の彦根藩主は三代藩主井伊直澄でした。
浪人の申し出を聞いた直澄は浪人を接待し、自ら浪人に面会し、「それはあっぱれな心意気である、見事に腹を切られよ」と言って、浪人に有無も言わさず腹を切らせたのです。
この話が広まると、切腹を申し出る浪人は居なくなり、井伊家は「さすがに武門の井伊家」と世の賞賛を浴びたのです。
この話は、直澄のエピソードとしてよく語られます。今回、『一命』が上映されるにあたって、出典を調べたのですが、有名な話の割りには出典を明確にできる物が見つからず、『異聞浪人記』やそれを映画化した『切腹』の影響で井伊直孝の話として語られる者も多く流布しています。
直孝の方が武勇の誉れがあるので物語にはし易いのですが、直孝の時代はまだ武骨な武士も残っていたので『異聞浪人記』『切腹』『一命』のように主人公の津雲半四郎が大殺陣を演じるならば似合う時代なのですが、ただ狂言切腹を演じるためだけの逸話なら、武士が形骸化した直澄の時代まで待たなければならなくなるのです。
では『異聞浪人記』は、何かモデルのなる話があるのかと言いますと、実はあるのです。
徳川幕府四代将軍徳川家綱の治世のこと、日本中が浪人で溢れ返っていて、当時は浪人を“牢人”とも書いたので「ウ冠の下に牛とは、我らは牛畜生の扱いである」と憤る者もいました。
そんなすさんだ浪人たちのなかで流行したのが、大名の屋敷を訪ねて「生計に窮し、最早生きることもままならぬので、お屋敷の庭先をお借りして切腹したいと思います。どうか介錯をお願いしたい」と申し出ることでした。
関ヶ原や大坂の陣の直後の武骨な武士が生きていた頃ならいざ知らず、この時期の武士は下手をすると刀を抜かないまま一生を終える者すら居るような時代だったのです。
「庭先といえども血で汚されたらたまらない」「そもそも一刀で介錯を成し遂げるほどの者が藩に居るのか?居なければ我が藩は世間の笑い者になる」などの事情から、多くの藩では金品を渡して、諭したという形で引き取らせるのが普通であり、それに味をしめた浪人たちが切る気もない腹を「切る」と言いたてる事件が横行したのです。
諸大名がこれらの浪人の対応に困っていた時、彦根藩井伊家の上屋敷にも切腹をしたいとの浪人が現れたのです。
この時の彦根藩主は三代藩主井伊直澄でした。
浪人の申し出を聞いた直澄は浪人を接待し、自ら浪人に面会し、「それはあっぱれな心意気である、見事に腹を切られよ」と言って、浪人に有無も言わさず腹を切らせたのです。
この話が広まると、切腹を申し出る浪人は居なくなり、井伊家は「さすがに武門の井伊家」と世の賞賛を浴びたのです。
この話は、直澄のエピソードとしてよく語られます。今回、『一命』が上映されるにあたって、出典を調べたのですが、有名な話の割りには出典を明確にできる物が見つからず、『異聞浪人記』やそれを映画化した『切腹』の影響で井伊直孝の話として語られる者も多く流布しています。
直孝の方が武勇の誉れがあるので物語にはし易いのですが、直孝の時代はまだ武骨な武士も残っていたので『異聞浪人記』『切腹』『一命』のように主人公の津雲半四郎が大殺陣を演じるならば似合う時代なのですが、ただ狂言切腹を演じるためだけの逸話なら、武士が形骸化した直澄の時代まで待たなければならなくなるのです。